寿林寺 ( じゅりんじ)

宗麟自ら土を運んで建立した寺

  大友 宗麟(そうりん) によって建立された禅宗寺院。大休山寿林寺と称する。臼杵 諏訪(すわ)にあったが現在は廃寺。
〈建立年代と位置〉
 建立年代は『 大友家文書録 』によれば、「宗麟禅 刹(さつ)を臼杵諏訪に建立す、宗麟寺と号す」とあり、その時期を永禄6年(1563)ころとする。これに対して、 イエズス会 士 バウチスタ が元亀2年(1571)当時、 府内 (大分市)から発した書簡(『 大分県史料 』15)によれば、「王(宗麟)は今大なる寺院を建てつつあり」とある。したがって寿林寺の建立年代は、元亀2年ころとする説が有力である。開山は 怡雲宗悦(いうんそうえつ) 。寿林寺の位置は、延宝年間(1673〜83)に 臼杵藩主 稲葉景通(いなばかげみち) が設置した船蔵の跡とするが(『 臼杵小鑑 』)、諏訪社の東に当たる位置という説もある(『 フロイス日本史 』7)。
〈寿林寺の建立〉
 大友 義鎮(よししげ)は京都 大徳寺(だいとくじ)に 塔頭(たっちゅう)(子院) 瑞峯院(ずいほういん)を建立し、豊後国大分郡 阿南(あなん)荘() 松竹(武)名 100貫の地を寄進、ついで、永禄5年(1562)、怡雲宗悦を戒師として 剃髪(ていはつ)、宗麟と号した(『 史料綜覧 』)。このように宗麟は参禅の志が固く、 丹生島(にゅう)城 ( 臼杵城 )に居城を移すと、城の前にも禅院の建立を企てた。宣教師 フロイス は、その書簡の中で、この僧院に寄付した収入は豊後においては最良なもののひとつであるといっている(『 耶蘇(やそ)会士日本通信豊後篇 』下)。宗麟は建立現場で指揮をとるとともに、自ら土塊を運んだといわれている。宗麟は寿林寺を建立するに当たって、京都大徳寺から怡雲宗悦を招いた。怡雲禅師は大徳寺第105代の住持である。若年から仏門に入り、許されて 徹岫 (てつゆう国師の弟子となった。弘治元年(1555)、)綸命(りんめい)を奉じて大徳寺住持に就職したが、宗麟に乞われて豊後国寿林寺の開山となった。宗麟は怡雲禅師のもとで禅修行に精励し、一千百か条の道理を毎日一つずつ、黙想ののち、長老(怡雲禅師)のもとに報告するか、所定の小箱に納めて指導を仰いだという(前掲書)。宗麟は自ら禅宗に帰依するだけでなく、家臣にも参禅を勧めたらしい。大友家の大身、武士らが新たに建立された寿林寺に朝参暮参し、遠里遠郷の貴賤が群集する有様であった(「 大友興廃記 」)。当時、豊後国にいた宣教師たちは、宗麟の禅に対する傾倒ぶりをみて、宗麟の キリスト教 帰依の期待を失い、その入信が甚だ遠いものとあきらめねばならぬほどであったという(『耶蘇会士日本通信豊後篇』下)。
〈建立の動機〉
 大友氏は初代 能直(よしなお) 以来、禅宗に深く関係している。宗麟も先祖代々の禅宗の信仰を堅持すること、当時の武家社会の知的風潮の中で、禅学理の奥義をきわめようとすること、戦国乱世にあって安心立命の境地を得ようとすることを望んだのに違いない。こうした一般的な理由のほかに、大友家内部の問題が寿林寺建立の動機となっていた。宗麟には 義統(よしむね) を嫡子として、 親家(ちかいえ) 親盛(ちかもり) の男子がいる。 嫡子単独相続 制をとった武家では、次男以下の謀反を避けて、他家の養子とするか、仏門に入れて僧侶とするかの習慣があった。とくに嫡子義統の凡庸で、小心な性格にくらべて、次子親家は恐るべき、激しい性格であったから、宗麟は嗣子の将来に不安を感じたのであろう。宗麟夫妻は親家を寿林寺に入れ、将来は 所領(しょりょう)をもつ同寺の長老にする計画であったらしい。「大友興廃記」にも御曹子を 喝食(かつじき)(僧侶)として諏訪に置かれたとあり、宗麟が親家を入れるために寿林寺を建立したことは間違いない。ところが、親家は宗麟の2度にわたる入寺勧告を拒否し、かえってキリシタンになることを強硬に主張した。宗麟は親家の寿林寺入寺をあきらめ、キリシタンにすれば、嫡子の義統に反抗しないであろうという意図から、親家の入信を許したと考えられる。天正3年(1575)11月、親家は洗礼を受け、 ドン セバスチャン と称することになった。
〈寺勢の衰退〉
 宗麟は禅宗に帰依したものの、キリスト教に対する関心を失ったわけではない。寿林寺建立後も、臼杵に教会堂を建設させているほどキリスト教に理解を示し、また援助をも与えた。禅宗に対しては、天正5年ころ、同宗の秘義が浅薄であり、自分の心を満たさないことを宣教師にもらしている。怡雲禅師と禅道上のトラブルも伝えられており、急速にキリスト教に傾斜して行く宗麟と怡雲禅師との関係が冷却するのは当然の帰結であった。フロイスは書簡の中に、宗麟がデウスの教えを聴いて喜び、人間の工夫したもの(禅による悟り)が無益であることを知って、僧院(寿林寺)に赴くことを止め、黙想の結果を禅師のもとに送ることを全廃したと記している(『耶蘇会士日本通信豊後篇』下)。両者の関係は、宗麟の迦葉 達磨(だるま)立像海中投入事件で決裂する。怡雲禅師はこの事件を聞いて絶望し、自分の使命の終わりを感じて帰洛した。天正12年、霊源大竜国師と 賜号(しごう)。天正17年8月 遷化(せんげ)、寿89であったという。怡雲宗悦ののち、その弟子 天叔宗眼(てんしゅくそうげん) が 嘱(たのみ)を受けて寿林寺の住職となった。元和6年(1620)2月、 示寂(しじゃく)。以後、寿林寺の寺勢ふるわず、延宝年間までには廃寺となった。
[芦刈 政治]

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