巡見使 ( じゅんけんし)
一向に存じ申さず候
徳川幕府は将軍の代替わりごとに、全国各地の 天領 ( 幕府領 )や大名領の治世視察のため使者を派遣した。この使者を一般に巡見使と称した。巡見使には旗本のうち、使番から1人、小姓組番と書院番のうちから2人の計3人が選ばれて上使となり、100人前後の 供揃(ともぞろえ)で数組編成されて全国に派遣された。その第1回は寛永10年(1633)、3代将軍 家光(いえみつ)の治世半ばの派遣だった。第2回は寛文7年(1667)で、この時も4代将軍 家綱(いえつな)の治世半ばの派遣だった。しかし、第3回の派遣は天和元年(1681)の5代将軍 綱吉(つなよし)の時で、この時から将軍の代替わり時の派遣となった。
〈諸国巡見使と国々御料所村々巡見使〉
巡見使と一般に呼称している幕府からの使節団には、実は2通りあった。大名領 天領の別なく諸国を巡見するものを「諸国巡見使」とよび、将軍の代替わりごとに派遣された。いまひとつは「国々御料所村々巡見使」で、こちらは 幕府直轄領 (天領)の村々の巡見を目的としていた。こちらの始まりは新井 白石(はくせき)の 正徳(しょうとく)の 治(ち)で知られている正徳2年(1712)から翌3年にかけて、14班に分けて派遣されている。九州方面を見ると正徳2年に豊前 豊後 筑前3か所を巡見し、翌3年に肥前 肥後 日向を巡見している。そしてこちらは将軍の代替わりとは関わりなく派遣しており、第2回は正徳6年(1716)、以下史料的に明かになっている年を列挙すれば、延享2 3年(1745 46)、宝暦10年(1760)、明和3年(1766)、天明6年(1786)、天明8 9年(1788 89)、天保9年(1838)があげられる。上記のうち何回かは、将軍代替わりに派遣された諸国巡見使と同じ年に、天領だけの村々廻村が行われている。
〈一向に存じ申さず候〉
巡見使が案内の農民に「これ、あの向こうの山際に黒いものが見えるが、あれは何か」と手にした扇で指し示しながら下問した。指し示された 山際(やまぎわ)には放牧中の黒牛が数頭いた。草を食べている牛や、じっと立ったままで 反芻(はんすう)している牛、また時々急に走り出したりする子牛などがみられた。案内の百姓は困惑した様子で、額の汗を手の甲でおし拭いながら、なおかつ目を凝らして山際の牛の方を見ていたが、「目がかすむもんでよう見えません」と答えた。「そうか遠目がきかぬか。ではあの山際の 秣場(まぐさば)はそちの村の秣場か」と重ねて問いかけた。くだんの百姓はいよいよ困惑気味な顔で「いっこうに存じません」と答えた。巡見使は顔を真っ赤にして「いっこうに存じません、では案内にならぬではないか。そちは余を 愚弄(ぐろう)いたすか」と、案内の百姓をどなりつけた。ところが、くだんの百姓は恐る恐る 懐(ふところ)から何やら書きつけてある小さく二つ折りにした小横帳(和紙四つ折り大の帳面)を取り出しながら「これに書いちょらんので、いっこうに答えようがねえんです。」と、半べそ顔で答えた。この巡見使は上述のいずれの巡見使であったのかあきらかでないが、巡見使が何を聞いても「いっこうに存じません」と答えた話や、本陣に定められた 旅篭(はたご)の女中に村の様子を尋ねたがまったく聞きだせなかった話など、巡見使の回村にまつわるエピソードが伝えられている。なぜ案内の農民は「あれは牛です」と答えなかったのだろうか。上記の話は多分に脚色された感がなきにしもあらずだが、うかつな返事をして特別な 運上(うんじょう) (雑税)を課せられては困るので、余分なことは口をつぐんでおきたいという、農民の自己防衛的な、江戸時代の農村の一側面を垣間見ることができる。上記の女中にも口を閉ざすよう耳うちがしてあったものであろう。では上記の案内の農民が懐から取り出したという小形の帳面とはいったいどのようなものだったのだろうか。日田郡 鎌手村 庄屋 が延享3年(1746)と明和3年(1766)に、国々御料所村々巡見使の案内にあたった農民に持たせたと考えられる帳面「懐中開答記」がある。巡見使の下問に対して、懐にしのばせた帳面をそっとのぞいて答えるために作成したことを物語るそのものずばりの題名である。そして明和3年の帳面は、上記の案内の農民が持っていたのはこの帳面ではないかと思わせるように、二つ折りにされて汗のにじんだ手でしっかりと握っていたであろうことを想像させるように、よれよれになっている。帳面の記載事項は、 村明細帳 と同じ内容である。同郡続木村では天保9年(1838)の巡見使廻村に備えて、組頭など主立った者3人に、誰が案内人に指名されてもよいように「御巡見様御通行御案内手帳」「御案内手控」一紙の「(村明細)覚」をそれぞれ持たせたであろう史料が残っている。速見郡別府村史料には白扇の両面に村明細をびっしりと書き込んだものがあり、巡見使案内に苦心したであろう跡をしのばせてくれる。この他に巡見使通行の路順を記した史料も各地に見られる(小宮木代良「幕藩体制と巡見使」 『大分の歴史』 )。
[佐藤 満洋]
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