承久の乱 ( じょうきゅうのらん)

郷土武士の去就は

 承久3年(1221)、 後鳥羽(ごとば)上皇 の倒幕計画が、幕府側の機先を制する対応によって 挫折(ざせつ)させられた鎌倉時代朝幕関係上の大事変。幕府側の大勝によってその支配権が西国に及び、上皇方朝臣 社寺や西国武士の所領3,000余か所は幕府側に没収され、有功将士に恩賞として給与されたため、東国武士団が多数西遷土着し、東国政権として成立した幕府が全国政権に発展した。日本封建制の進展に画期的な影響を与えた戦乱の一つ。
〈原因〉
 正治元年(1199)源 頼朝(よりとも)の死後、北条政子は父 時政(ときまさ)と図って将軍独裁体制を廃し、 和田義盛(わだのよしもり) 比企能員(ひきよしかず) 大江広元(おおえのひろもと)ら3人の合議制に基く執権政治をはじめた。将軍頼家 実朝を倒し、 梶原景時(かじわらのかげとき) 和田義盛等の有力御家人を切り放して将軍独裁制に代わる執権政治の基礎を固めるためであった。朝廷側では、こうした動きを幕府の危機と誤認し、後鳥羽上皇が対幕計画を立て、皇室内部の体制強化、院の近臣の集中、西国武士 脱落御家人や朝廷側の 公卿(くぎょう)等の結集をはかった。京方軍には、淡路国の御家人の場合のように、たまたま京都 大番(おおばん)で守護佐々木氏に引率されて上京中の御家人が、強制的に引き入れられたものもあった。
 承久元年(1219)上皇は、幕府側からの皇族将軍の要請を拒否した。これに対し幕府側は、朝廷側の要求である、院に接近した御家人 仁科盛遠(にしなもりとお)の所領の返還、寵妃 伊賀局(いがのつぼね)領である摂津 長江(ながえ) 倉橋(くらはし)両荘の地頭撤廃の2要求を拒否した事から、いよいよ決裂状態となった。北条義時は、九条 兼実(かねざね)の孫 道家(みちいえ)の子 頼経(よりつね)を将軍に迎え、 西園寺公経(さいおんじきんつね)を抱き込んで公家の分裂をはかった。
〈乱の経過と結集〉
 承久3年(1221)5月上皇は北条 義時(よしとき)追討の 院宣(いんぜん)を出し、京都守護 伊賀光季(いがのみつすえ)を亡ぼした。幕府は兵を東海 東山 北陸の3軍に分け、総勢19万の大軍をもって東上させ、至る所で官軍を破り、京都を占領した。皇位に干渉して 仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃し討幕計画に加えられなかった後高倉院( 守貞(もりさだ)親王、後鳥羽院皇兄)の王子後堀河天皇を立て、3上皇を遠島し、京方公卿 御家人等所領3千余か所を没収し、有功の将士に恩賞として与えた。さらに幕府は京都に南北 六波羅探題(ろくはらたんだい)を置き、朝廷を監視するとともに、西国を支配させた。これまで東国のみに支配権が制限されていた幕府の権限が、西国に及ぶ様になり、武家政権が全国政権に発展する契機となった。
〈郷土武士の活躍〉
 豊後では承久元年(1219) 大友 能直(よしなお) の長子 親秀(ちかひで) が家督をつぎ 守護 職(しき) に任じていた。ただし彼はまだ豊後には下向していなかったらしい。3年6月14日、親秀は 古庄重景(ふるしょうしげかげ) (能直の弟 古庄 重能(しげよし) の子、 小田原蓮仏(こだわられんぶつ) )や 佐伯 左近将監(さこんのしょうげん) (名欠)等を率いて幕府軍に属し、東上して宇治橋で奮戦した。この時の戦いで重景は負傷し、佐伯氏は戦死したとある(『 大友家文書録 』)。
 当国内の御家人 社寺の動向は、まちまちであったらしい。玖珠郡の豊後 清原一族 の 帆足 家道(いえみち) ( 道西(どうせい))は子 家近(いえちか) と争って家近を勘当していたが、家近は幕府方、家通と次子 家綱(いえつな) は京方と、一家が両方に分れて争っている(「 大友文書 」)。
  由原(ゆすはら)八幡宮 大宮司(だいぐうじ) 平 章妙(あきただ) は、後鳥羽上皇方の中心人物である 按察使(あぜち)藤原 光親卿(みつちかきょう)に 祇候(しこう)して、京方となり関東を 呪咀(じゅそ)したと、 賀来(かく)荘 地頭 賀来小次郎 惟綱(これつな) から幕府に訴えられた。これに対して章妙の子 妙念 は、京方となって関東を呪咀したとは無実であり、ただ天長地久を祈っただけである陳弁した。幕府側は、天長地久を祈ったと自称する以上、関東呪咀の疑いは濃厚であると認めながら、すでに20か年以上を経た事件として時効を認め、敢えて追求しなかった(「 柞原(ゆすはら)八幡宮文書 」)。こうした事例は他にもあったと推定されるが、古文書等に明記されているものは比較的少ない。
〈東国御家人の恩賞地下向〉
 東国御家人で、この乱の恩賞として当国内に所領を与えられ、下向土着した実例として海部郡 毛井(けい)社 地頭 平林 頼宗(よりむね) (入道 頼念(らいねん))の場合がある。同氏の本領は信濃国 埴科(はににしな)郡 英多(あがた)荘で、嘉禎2年(1236)7月28日将軍( 藤原 頼経(よりつね) )家 政所下文(まんどころくだしぶみ)を下され、勲功の賞として毛井社地頭職に補任された(「 碩田(せきでん)業史平林家古文章 」)。この毛井社地頭職が 没官(もっかん)領であるとすれば、これも京方御家人の 跡職(あとしき)であることになる。当所が大野川渡河点で 国衙(こくが)領 である点から推測すれば、国衙祇侯の京方御家人がいたのかも知れない。平林氏はここに下向土着して領主的発展をとげる。弘安8年(1285)の「 豊後国 図田帳(ずでんちょう) 」をみると、かなりの東国御家人の所領が存在する。おそらくこれらの中には承久合戦の恩賞地がふくまれているのではなかろうか。
 参考文献 田中 稔「承久京方武士の一考察」(『史学雑誌』65−4号) 同「承久の乱後の新地頭補任地<拾遺>」(同79−12号)
[渡辺 澄夫]

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