縄文土器 ( じょうもんどき)
狩人と漁師が使った土器
道具にはそれをつくった人の意識が投影されている。考古学は過去の人々が 遺(のこ)した道具を様々に分析することによって、その中に込められた人と社会の歴史を明らかにする。土器は柔らかな粘土を素材とするため、他のどのような道具にもまして製作者の意識が豊富に投影されている。「縄文」は細い縄を生乾きの土器の表面に転がしたものであるが、ほかにも 刻目(きざみめ)をいれた細い棒を転がしたり、貝殻や竹などを用いて、線を引いたり、突き刺したり、あるいは粘土紐を張り付けたりしたものがある。露天で焼かれており、焼成温度は800〜900度である。一般に縄文文化として理解されているものの多くは東日本的なものであり、西日本の土器には「縄文」があまり認められないように内容を異にする部分が多い。縄文土器は、採集経済を営む狩人と漁師が使用した道具である。稲作を生産基盤とする弥生時代の土器が 壷(つぼ) 高杯(たかつき)など器種が豊富であるのに対して、縄文土器は文様や形にバラエティーが認められるが、大部分は口の大きく開いた煮たき用の深鉢である。両者の比較から、弥生土器は機能にあわせてそれぞれの形が決められているのに対して、縄文土器は少ない器種を形や文様の違いによって使い分けたものと思われる。歴史の流れに時間尺度を設ける上で、土器の文様と形は有効な資料となる。そのため型式学や層位学などによって、土器をさまざまに分析することになる。ここでは県内の縄文土器を時代順に概観してみることにする。
縄文時代の始まりは日本列島で初めて土器がつくられた紀元前約13,000年前で、その終わりは弥生時代が始まる紀元前2世紀ころと考えれている。この約1万年間は土器の変化を手がかりにして、草創期 早期 前期 後期 晩期の6期に大別し、それを地域別にさらに数期に細別し、標準的な遺跡名などを冠した土器形式の名称で呼ぶ。
〈世界最古の土器〉
早期より深い地層から発見される草創期の土器群には、 豆粒文(とうりゅうもん) 隆起線(りゅうきせん)文 爪形(つめがた)文 それに 無文(むもん) なのものがあり、放射性炭素の測定法によって13,000〜10,000年前の年代が明らかになっている。これは今のところ世界で最も古い土器である。遺跡数は極めて少ない。県内では 日出(ひじ)町■■遺跡で発見されている 爪形文土器 などがある。草創期の土器に伴う石器は九州では 細石刃(さいせきじん) 、本州では 有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき) である。■■遺跡の土器は有舌尖頭器を伴っており、両文化の接点としての地域性をよく表している。これに続くのは九重町 二日市洞穴 第8 9層から出土した平底の 条痕(じょうこん)文土器 、第7層出土の 丸底無文土器 などである。
九州の早期を代表する土器は 押型文(おしがたもん)土器 である。これは刻目を入れた細い木を土器の表面に転がして 楕円(だえん)形や山形の文様を施している。県内最古の押型文土器は 稲荷山式 (杵築市)と呼ばれるもので、細かい押型文が整然と施されており、器形は尖底で口縁部にかけて直線的に開く。新しくなるにつれ文様が全体的に粗雑になったり、胴部が膨らみ口縁部が外反するなど器形も変化する。そして最終的には南九州や山陰 中国地方からの影響を受けて出現時のものとは全く異なる土器に変容する。その文様には押型文とともに 貝殻(かいがら)による 刺突(しとつ)文 刻目 突帯(とったい)文 沈線(ちんせん)文 などが見られる。器形も胴部が屈曲し、口縁部は大きく外反し、底部は平底となる。
早期の土器は、 早水台(そうずだい)式 ( 日出(ひじ)町) 下菅生(しもすごう)B式 田村式 ヤトコロ式 手向山式 塞ノ神式 の順に新しくなる。
〈九州を二分する文化圏〉
前期を代表する土器は 貝殻条痕文土器 である。 ハイガイ などの貝殻で器面をなでて平滑に仕上げる際に生じた条痕から付けられた名称である。県内最古の条痕文土器は 上菅生B遺跡 (竹田市)などで出土している。口縁部付近の外面に条痕により波状や山形の文様を描いている。九州の土器編年では 轟A式 とされる。それに続く轟B式土器は、細い粘土紐を横や縦に張り付けたり、条痕をなで消したりする。この時期に長崎 熊本 鹿児島など九州山地の西側の地域には、 平行沈線 による幾何学的な文様をもつ 曽畑式土器 が流行する。土器の特徴や分布から朝鮮半島の 櫛目(くしめ)文土器 の影響が考えられる。ところで遺跡の発掘調査では、轟A式の土器群が出土する土層とB式 曽畑式の土器群が出土する土層との間には「 アカホヤ 」と呼ばれる火山灰層が介在する場合が多い。「アカホヤ」の降下は約6,300年前というデーターが出ており、土器編年を行う上での効果的な指標となっている。
中期は、西日本一帯に広く分布する 船元式土器 (岡山県)と九州の西側を中心に分布する 阿高(あだか)(熊本)式土器の、二大文化圏が形成された時期である。船元式土器は表面全体に縄文を施し、その上に粘土紐を張り付けたりすることを特徴とする。一方、 阿高式 は指先で描いたような凹線文を特徴とする。これは前期の曽畑式から形式変化した伝統的な土器文化であり、その分布も基本的に同じである。中期は大分県内の遺跡数が極端に減少した時期であるが、16遺跡中12遺跡までが船元式土器を出土する。横尾貝塚(大分市)は人骨を初めとする多くの資料が出土した代表的な遺跡である。
〈 磨消(すりけし)縄文と 黒色研磨(こくしょくけんま)〉
後期になると 磨消縄文 と呼ばれる文様をもつ土器文化が本州の大部分に展開する。この土器は口縁部や胴部に箸のような工具で渦巻き文や入り組み文を描き、その区画線内に縄文を施し他の部分は磨り消したものである。中期の末ごろ、大分県地方には東九州の貝殻文と阿高系の文様が組み合った土器文化が発達しており、瀬戸内系文化を後退させていた。そこに再び、西日本に広く分布する 磨消縄文土器 の文化が九州に 伝播(でんぱ)することになる。中津式(岡山県)と呼ばれる段階の土器群で、全体に精緻な文様をなすことを特徴とする。瀬戸内系の土器文化は次第に定着し、やがて九州独自の文化が発展する。 小池原(こいけばる)式 (大分市)と呼ばれる土器群で、沈線や縄文は粗く粘土を張り付けた 把手(とって)状に張り付けた文様などを特徴とする。器形は口縁部が長く外反するものと短いものがある。後半になると磨消縄文は消滅にむかい無文部の研磨が入念になる。器形は 西平(にしひら)式 (熊本県)に見られるように、長く外反した口縁部は波状を呈し胴部は球状に張る。磨消縄文が消えた直後の土器は 三万田(みまんだ)式 (熊本県) 御領(ごりょう)式 (熊本県)と変化する。器形はにはバラティーがあるが文様は沈線文を主体にした単調なものである。器種も深鉢に加えて浅鉢 注口土器が伴うようになる。三万田式は 夏足原(なたせばる)遺跡 (大野町) 内河野遺跡 など 大野川 流域に多いが、近年県北部でも発見例が増えつつある。
中期の末以降東日本から西日本に伝播した土器文化は晩期に至って、 亀ヶ岡式土器 文化と突帯文土器文化とい二大文化圏を形成し、その対立関係のなかで弥生時代を迎えることになる。 刻目突帯文土器 以前の県内の晩期の土器は 大石式 (緒方町) 浦久保式 (緒方町)と 田村上層式 (朝地町)の二時期分けられる。前者は 黒色研磨 の浅鉢と沈線の口縁部を有する粗成の深鉢を特徴とする。後者は浦久保式から形式変化した浅鉢類に、 黒川式 (鹿児島)の浅鉢が加わる。深鉢には体部上半部がくの字に屈曲するものもあり、深鉢の一部には刻目のない一条の突帯が巡らされている。この土器は刻目突帯文土器の先行形態とをなすと考えられている。このころから遺跡の数が激減する。それは後 晩期以来発展していた縄文社会が大きな変革を迎える前兆である。
[小倉 正五]
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