女紅場 ( じょこうば)

いつわりの解放学習

〈女紅 女紅場の意味〉
 女紅は 紡績 裁縫 刺繍(ししゅう)等女の仕事、またはその製品の意。女工 女功とも書き、婦功ともいう。女紅場は明治初年代に各地に設立された、女子に裁縫 機織(はたおり) 読み書き等を教える学制外の施設の称。明治5年(1872)に京都に設けられ各地に及んだが、10年代にはほとんどが改廃された。現在、祇園の歌舞練習場の称として残っている。今年の実証的研究で女紅場に4つのタイプのあることが明らかになった。1は女子中等教育機関の性格を持つもの(京都新英学校及び女紅場)、2は京都、大阪につくられた市中女紅場、やがて郡部に及び、小学校に就学しない女子や学齢を越えた女子等の補習教育機関となる。3は救貧授産、 士族授産 の意図を持つ勧業授産場的性格のもの、4は芸娼妓の自立更生の目的を掲げた遊所女紅場。 殖産興業 、食力益世、国民皆学を掲げた明治新政府下の産物である。各府県の勧業課又は学務課に属し、両課の所管もある。
〈大分県下の女紅場の性格〉
 大分県下の女紅場は遊所女紅場。公許の遊女屋所在地別府村、浜脇村(別府市)を合わせて1女紅場、関村(佐賀関町)、下ノ江村(臼杵町)にそれぞれ設置。その地稼業の 芸娼妓 全員が強制的に生徒にされた。
〈設立の背景〉
 遊所女紅場設立の背景には、明治5年6月に偶発した。 マリア ルス号事件 に連動して、同年10月2日に公布された太政官達第295号と、同月9日に出された司法省達第22号がある。前者は芸娼妓の全面的開放が掲げられており、後者は芸娼妓の前借金一切無効を布告したもの。マリア ルス号事件によって諸外国注視の中で、早急に、国内の人身売買を廃止する必要に迫られた明治新政府は、唐突に芸娼妓解放令を発し、事後処理は各県にまかせる態度をとった。東京府を皮切りに、各県は遊女屋を貸座敷と改称させ、自らの意志で稼業する者に「芸娼妓渡世」を許可する方針を出し、実行した。
〈遊所女紅場設立の趣旨 目的〉
 大分県下の女紅場設立の趣旨は、芸娼妓を「漸々生業ニ復帰セシメル」(『大分県教育沿革略史』)ところにあるとした。また、将来「家政ヲ調理シ、児童ヲ育養スル責任ヲ負」うためとし、「一朝柳衰ヘ花落チ」た時の自立のためともしている(「変則女学校規則」緒言)。実際は解放令後の芸娼妓引き止め策。別府では解放令によって芸娼妓を失えば泉都の「市況」に大きく影響すると考えた戸長らが、今 暫(しばら)くとどまって「婦女子たる技能習得」をし、帰郷するよう芸娼妓、父兄を説得、多くがこれに従った(『別府市誌』)。女紅場の設立は新政府の解放令に対する地方行政当局者 業者の対抗策といえる。京都の遊女女紅場が婦女職工引立会社によって、解法令と殖産興業、食力益世を巧妙に結合させようとしているが、大分県は産業との結びつきを考えていない。
〈女紅場の実態〉
 県下女紅場の設立、解体時期不詳。現存資料では明治8年から同11年の間の存在を知ることができる。別府の女紅場の初期主管者 岡田治作 (浜脇岡田屋主人)、下ノ江女工所は教師、取締人等。この時期は貸席業者間の申し合せ的定款を県に届け出ていたようである。10年ころから地元用務所(大小区制下の小区役所)が女紅場規則を作り、県の許可を受けている。これを公立移管とみる説がある(久多羅木儀一郎「教育史の上より見た女紅場」)。11年に県下3女紅場は 変則女学校 と改称。 県庁 の所管も第2課(勧業)から5課(学務)に移った。女紅場時代より取締まりを厳重にするためで、変則女学校開設に当たって当局者は「自由学習」の機が来たと生徒を激励しているが、実は懲戒場であった。理由のない欠席、仮病欠席、授業中の高声、笑語も高額な罰金を課した。下ノ江女工所では諸経費すべて芸娼妓持ち、別府女紅場は業者、芸娼妓双方負担。寄留主が届け出れば授業中にでも客の招請に応じることになっており、生徒は安心して授業を受けることも保障されなかった。
〈成果〉
 女紅場、変則女学校では読み書き、裁縫等の指導をした。変則女学校では校則を工夫してもいる。優秀な者は有給で女紅場助教へ取り立てられる道が開かれていたが、自立の道を歩んだ者は例外中の例外であろう。人身売買の上に立ついつわりの解放学習であった。ただ、女紅場の裁縫が県下小学校の裁縫科設置へ刺激を与えたと評されている(久多羅木儀一郎「教育史の上より見た女紅場」)。
〈主な研究書〉
  久多羅木儀一郎(くだらぎぎいちろう) 「教育史の上より見た女紅場」(『別府大学紀要』第7輯 昭和32年)。坂本清泉 坂本智恵子『近代女子教育の成立と女紅場』(あゆみ出版 昭和58年)。
[古庄 ゆき子]

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