地震 ( じしん)

「沈んだ島」の実像

 地震は天災の代表格として古来甚大な被害を人々に与え、今なお近代科学の力をもあざ笑うかのような深刻な災害を各地にもたらしている。その被害の状況は各種の古記録に残されているが、わけても「 瓜生島(うりゅうじま) 」沈没の伝説はその事実の当否は別にしても、地震の恐怖を 巷間(こうかん)に流布させたものとしてよく知られている。近世における地震記録のうち、県下でとくに著名なものは上記の瓜生島伝説で知られる 慶長地震 (慶長元、1596)をはじめ、 宝永地震 (宝永4、1707)、 安政地震 (安政元、1854)の三大地震がある。このうち宝永、安政の両地震については各藩の諸記録に規模、罹災状況など比較的詳しく書き留められているが、慶長地震については記録の乏しさも手伝い、その実態については明確でない部分が多い。
〈「瓜生島」伝説のルーツ〉
 島のエビス神の顔が赤くなれば島が沈むといういい伝えにさからった一島民のいたずらによって、慶長元年 閏(うるう)7月(9月とも)突如起こった大波のため海中に没し多くの島民が犠牲になったという。この伝説の島「瓜生島」が始めて記録に登場するのは、元禄12年(1699)府内の学者 戸倉 貞則(さだのり) の著「 豊府紀聞 」においてである。不思議なことに海没してから百年後になって、まさに突然に「瓜生島」は東西約4q、南北約2.3q、三筋の町のある家数千軒程の 別府湾 中の島として容姿が整えられ、これにふさわしい「瓜生島」の島名も「豊府紀聞」が最初である。こうした点から見ると、「瓜生島」は海没の伝説が次第に肥大化される中で、人為的に作りあげられていった島と考えてもさしておかしくはない。
〈「瓜生島」と「沖ノ浜」〉
 「瓜生島」以前、大分河口左岸の現5号埋立地から春日浦付近にかけてあったと推定されるのが「 沖ノ浜 」であり、近世にも 勢家村 の一部に「 沖ノ浜町 」の名前でその名前が伝えられている。「沖ノ浜」は戦国時代に中国 鄭舜功(ていしゅんこう) の「 日本一鑑 」に「 澳浜(おきのはま)」、ポルトガル人の「航海路程記」に「アキナファマ」などとして紹介されまた日本側の記録にも「沖浜」(「 城内文書 」「 立花文書 」『 大友家文書録 』等)、「沖ノ浜」(「 中川史料集 」)などどしてしばしば登場する。この海港「沖ノ浜」が位置的にみて「瓜生島」に相当することは疑いを入れない。ちなみに、「豊府紀聞」には「瓜生島」の別称として「沖浜町」、「 雉城(ちじょう)雑誌 」にも一名を「沖ノ浜」と伝えているが、古文書等からすればこれは本末転倒で、「沖ノ浜」こそ本来の名称なのである。「中川史料集」によれば、「沖ノ浜」は文禄3年(1594) 岡藩領 として、 中川氏 の支配となった 今津留村 のうちの岡藩の船着きであったという。この船着きを管理していた 柴山氏 が、大地震と大津波に遭うが神助を得て夫婦共々海中から九死に一生を得たという体験が「 津山氏世譜 」に書き留められている。
〈慶長地震の実態〉
「沖ノ浜」の海没の状況を直接伝える信頼のおける史料はないが、すぐ近くの乙津河口左岸に位置する 原村 (大分市原)にはこの地震の規模を伝える貴重な記録が残されている。かつて120石の村高であった原村は地震の結果わずか32石余の村高に減少、近隣の 松崎 、 住吉 の両村では村がなくなり塩浜になったと伝える 三浦家文書 がそれである。同様な事例は「 正保郷帳 」(正保4、1647)にもたとえば速見郡内の1,938石余りの土地が「大地震=滅地」した土地として書きあげられている。ちなみに、「 豊国紀行 」には120年前の出来事として、「別府の辺大地震して、 古(いにし)へ有し別府村は 悉(ことごと)く海となる」などと記しているが、これまた「瓜生島」と同様、次第に誇大化された伝聞の模様をうかがえよう。三浦家文書によれば地震は、「申(慶長元)年の7月9日、7ッ半時(午後4時過ぎ)の時分にゆり出し」大津波が原村まで打越して大被害をもたらしたが、「なへのゆ出し」(震源地)は高崎付近で、村内には大きな「おもわれ」(地割れ)が長渕からみこ田という所にかけて走ったという。 野史(やし)によれば慶長地震の被害は杵築から佐賀関辺りまで別府湾岸全体に広がったとされているが、マグニチュード6.9の直下型巨大地震による大津波と液状化現象により、沖ノ浜を中心とした海岸部地域がかなりの範囲に海中に没した事実は否定できないだろう。
〈宝永地震と安政地震〉
 宝永4年10月28日の宝永地震により 府内城下 では天守 櫓(やぐら)、土塀、石垣、藩士宅、町屋が「大破」の被害を受け 臼杵城下 では潮高約1mの津波に襲われている。安政元年12月24日の安政地震も宝永地震と同様なマグニチュード8.4の巨大地震で、府内城下では「城中過半潰れ、御家中、町在とも大破」という被害状況であった。
[秦 政博]

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