自由民権運動 ( じゆうみんけんうんどう)

愛国社路線と交詢社路線の対抗

〈馬城大井憲太郎〉
 日本近代史上に初の デモクラシー運動 として展開された自由民権運動は、明治7年(1874)1月、前参議板垣退助 江藤新平らが政府(左院)に提出した有名な「民撰議院設立建白書」に始まる。政府は建白書の受理をさえ拒んだが、その全文は『日新真事誌』紙上に掲載され、がぜん激しい賛否の論争がたたかわされることになった。時期尚早を論拠として、板垣らの国会設立 立憲政治の構想に反対したのは、かつて『立憲政体略』や『真政大意』等を書いて立憲制を紹介していた後の東京帝国大学初代総長加藤弘之であった。
 これに対して、当時政府(陸軍省)の一小吏でありながら、敢然として国会即時開設論を唱えたのが、 馬城台二郎(まきだいじろう) こと 大井憲太郎(おおいけんたろう) であった。大井憲太郎は、宇佐郡 高並(たかなみ)村(院内町)の庄屋 高並彦郎 の子、長崎遊学で知り合った紀州人大井 卜新(ぼくしん)の養子となり、 箕作麟祥(みづくりりんしょう)についてフランス学をまなんだ。彼は、原理的には人民主権説の立場から、実際的には日本人民の智恵は十分として、国会の即時開設を当然とし、「下流の民権説」に道を開いた。大井憲太郎はその後、自由党左派の指導者として活躍、朝鮮改革派の武力援助を企てて逮捕され(大阪事件)出獄後も自由党系の対外硬グループの一人として活動、また普通選挙同盟 大日本労働協会 小作条例期成同盟の結成など、下層勤労民衆の側に立ち続けた。
〈大分県下の民権結社〉
 板垣退助は、明治7年、郷里土佐に帰って立志社を興した。以来各地に民権結社が出現し、翌年にはこれらを結合した 愛国社 の創立となる。ただしそれらはすべて薩長藩閥政府に不満な士族たちの結合、すなわち「士族民権」という性格が強かった。
 大分県で最も早い結社は、明治7年に 増田宋太郎 が結成した 共憂(きょうゆう)社 である。愛国社創立大会には社員の 川村 矯一郎(きょういちろう) が参加した。共憂社が何をしたかは不詳であるが、増田宋太郎は明治10年の 西南戦争 に際して 蜂起(ほうき)した 中津隊 の隊長として、熊本城攻囲失敗後の西郷軍と行を共にして死んだ。他方、社員だった川村矯一郎らは、立志社の林有造らと政府高官暗殺を企てて逮捕(高知の獄)された。こうして共憂社の運動は潰滅したが、西南戦争後、大分県でも豪農 名望家層が運動に参加するようになる。明治11年から15年にかけて、県下に結成されたことを確認できる民権結社 演説会は次の通り。
 中津町に、 共立社 画一社 正従社 亦一(えきいつ)社 親愛社 興成社 進脩講談会 明治庚辰講談会 ( 村上 田長(たおさ) 中野松三郎 ら)。下毛郡に、 共愛社 ( 梅木芳太郎 ら) 相愛(そうあい)会 尚交社 猶興社 ( 賀来素吉 ら)。宇佐郡に 菱池(ひしいけ)講談会 ( 江島久米雄 佐藤安良 ら)。西国東郡に 共謙(きょうけん)社 ( 鴛海百郎 ら)。速見郡に 立石鳳鳴(たていしほうめい)社 ( 胡麻鶴岩八 ら) 杵築東豊社 。北海部郡に 折玄(せつげん)社 ( 可兒矢 南和 ら)。南海部郡に 佐伯 久敬(きゅうけい)社 ( 佐藤 蔵太郎(くらたろう) ら) 十四社 ( 中島固一郎 ら)。直入郡に 奨順社 ( 渊野勝也 桂淳一郎 ら) 二厘社 (のち 貫填(かんてん)社 )。日田郡に 三本松演説会 ( 加藤松五郎 ら)。
 以上のうち、特徴的かつ活発なのは、亦一社 明治庚辰講談会 貫填社の三つである。
〈亦一社と国会期成同盟〉
 亦一社は明治10年8月に結成されたらしい。社長は 宮村 三多(さんた) で、他に 南省吾 、 上田長次郎 、 笹部 雍雄(やすお) ら多くは下級士族であった。さかんに演説会活動を展開し、明治12年の愛国社再興第2回大会、同年の第3回大会に参加、この大会での決定によって年末「国会開設ヲ請願セザルベカラザル義ニ付キ意見書」を『 田舎新聞 』紙上に発表し、国会開設請願書の連署者集めに取り組んだ。その成果が、明治13年2月に元老院に提出された「国会創立ヲ請フノ建言」に付された上毛 下毛 宇佐三郡580名の連署であった。明治13年の愛国社第4回大会には上田長次郎が三郡人民639人総代として参加、国会期成同盟に加わって、同年11月に再び太政官に請願書を提出した。しかしこの月の国会期成同盟第2回大会に社長宮村三多が上京中に、中津で亦一社は解散した。事情は不詳であるが、翌年の 自由党 の結成に参加した大分県人は、上田長次郎 笹部雍雄 今村角太郎 胡麻鶴岩八の4人だけであった。
〈貫填社と九州改進党〉
 県下の民権結社の中で独特なのは竹田の貫填社である。はじめ二厘社と称し、明治13年に改称した。 久保敬徳 甲斐純 野尻従吉 らをメンバーとしたが、中心は 秋岡徳郎 であったらしい。秋岡徳郎は熊本県の民権結社中の最左派だった相愛社の社員で、その機関紙『東肥新報』記者でもあった。したがって竹田貫填社には相愛社系の急進的自由主義の影響があった。明治13年ころ、九州各地の民権結社が板垣退助ら土佐派がリードする愛国社から分離して九州連合を結成しようとする動きが進むと、貫填社もこれに参加し、明治15年に熊本で 九州改進党 が結成されると、秋岡 甲斐 野尻らはその党員になると共に、帰郷して 竹田改進党 を結成した。その綱領の第一条は「自由を 伸暢(しんよう)し権利を拡張する」という、自由党系のものであった。
〈明治庚辰講談会と交詢社〉
 明治12年9月、 福沢諭吉 を中心に結成された 交詢(こうじゅん)社 の県下での組織化は、同年末の 小幡篤次郎(おばたとくじろう) の中津帰省に始まった。その結果まず中津に、翌13年1月結成されたのが明治庚辰講談会であった。時あたかも愛国社―国会期成同盟の路線に立つ亦一社の国会開設請願署名運動の時期、明治庚辰講談会はこれに対立する「穏健着実の紳士」(佐藤蔵太郎の評)による運動路線を打ち出したのである。亦一社が解散してのち、この交詢社路線は県下の民権結社や県会議員、地方名望家を結びつけることに目ざましい成果をあげる。明治16年までに県下の交詢社員は89名で九州1位、全国で9位であった。ことに下毛 宇佐 西国東郡に多い。そして明治14年の大分町と中津町での交詢会を皮切りに、県下各地に次々と交詢会員が開かれた。明治15年初め、交詢社員 副四郎一(そいしろういち) は上京して大隈重信 矢野文雄 の指揮を受け、中央での立憲改進党結成への動きに併行して大分県での政党結成準備にとりかかった。各地にある交詢会を核として有志親睦会が持たれ、その積み上げの頂点で、明治15年5月6日、大分町南新地において 大分県大親睦会 が開かれ、前大分県大書記官 小原正朝(おばらまさとも) を議長、 山口 半七(はんしち) を発起人総代として、 豊州立憲改進党 が結成されたのである。提案された党則第一条は「我党は皇室の尊栄を保持し国民の幸福を増進するを以て目的とす」と、中央の立憲改進党のそれをそっくり踏襲した。臨席していた竹田の秋岡徳郎ら貫填社グループは「自由を伸暢し権利を拡張す」という中央の自由党系に連なる九州改進党綱領を第一条とせよと主張し、容れられなかったために退場した(ただし後に立憲改進党に参加)。
〈豊州立憲改進党〉
 結成された豊州立憲改進党は明治15 16年に活発な運動を展開した。これに対し大分 県令 西村 亮吉(りょうきち) は熊本の反民権団体紫溟会の総帥古荘嘉門を迎え、 毛利 空桑(くうそう) を 戴(いただ)く反民権政社 明倫会 を組織させ、豊州立憲改進党の演説会や機関紙等に圧力を加えた。全国的にも明治16年には自由党と立憲改進党の対立と政府の弾圧で民権運動は分裂、混乱、衰退の形勢となった。その中でまず竹田改進党が、ついで豊州立憲改進党が解散した(明治17年2月)。一方、九州改進党も明治18年に解党していたが、明治20年、 大同団結運動 が高まると、再び九州民権派の再結集の動きが始まった。大分県からもこの動きに加わるものが現われ、明治21年からは旧豊州立憲改進党有志の参加が認められる。おそらくこの前後に豊州立憲改進党が再建されたが、研究はその時日の確認に成功していない。明治22年、九州改進党の再興ではなく、よりゆるやかな九州連合が成立して大分県の改進党も参加したが、この年の夏に大隈外相の条約改正案が暴露され国論が二分される事態が生じると、九州各県が次々に条約改正反対 対外硬の建白を決議する中で、ひとり豊州立憲改進党のみが同年8月31日、県下各郡有志539名の連署をもって「条約改正断行を請ふの建白」書を元老院議長あてに提出している。以上のように、大分県の自由民権運動は福沢門下の人脈と交詢社の組織化の目ざましい成功とによって、立憲改進党系が征覇するところとなったのである。大井憲太郎のように自由党系に身を置いた活動家はわずかで、それも県外を舞台とせざるを得なかった。
〈永田 一二(いちじ)と上田長次郎〉
 その中で注目すべき人物に永田一二と上田長次郎(いずれも旧中津藩士)がいる。永田一二は慶応義塾出身。土佐立志学舎教員に招へいされ、明治10〜11年にかけては、頭山満 杉田定一 竹内正志 栗原亮一 河野 広中(ひろなか)らと共に愛国社再興の議に参画した。その後、植木 枝盛(えもり)編集の『愛国志林』『愛国新誌』記者となり、同誌に「国会論」を連載、明治13年には岡山の『山陽新報』主筆となって、同紙上に「私草憲法」を発表した。それは交詢社憲法草案と共存同衆憲法草案を参考にしたものであるが、天皇神種 神聖の規定を設けることを臆説としてしりぞけるなどの独自性も示している。明治14年には大阪に設立された自由党系の立憲政党に参加し、その遊説員として九州改進党結成などにも参画した。また各地の民権派新聞に招かれ、最後に富山県自由党の稲垣示に信任されて『北陸公論』『北陸政論』主筆をつとめ、明治23年には稲垣と共に 国民自由党 に参加したりもしている。上田長次郎も、明治12年高知に遊び植木枝盛や河野広中らと親交し、愛国社路線の中で活動を続けた。明治14年、中江 兆民(ちょうみん)を主筆として『東洋自由新聞』が創刊されるとその理事兼記者となり、社長 西園寺公望(さいおんじきんもち)が退社させられたいわゆる西園寺密勅事件に際し、その内幕を暴露して編集人松沢求策と共に下獄している。
 参考文献 『大分県政党史の研究』(山口書店)
[野田 秋生]

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