稲葉氏 ( いなばし)

織田大名の生き残り

 本姓 越智(おち)氏。10世紀以降伊予国(愛媛県)中 東部で絶大な勢力をふるった 河野(こうの)氏 の57世 通直(みちなお)の末子 塩塵(えんじん)( 通貞(みちさだ))が美濃国(岐阜県)の 土岐(とき)氏に仕え稲葉山城に拠り稲葉氏に改姓。その後戦国の動乱を生き抜き江戸期には@豊後臼杵藩A山城淀藩B伊勢田丸藩C安房 館山(たてやま)藩D美濃青野藩の5大名家に分かれる(内BDは中絶)(Aの藩祖 正成(まさなり)の妻が3代将軍家光の乳母として有名な 春日局(かすがのつぼね) 。なお春日局が臼杵に居住していたという伝承もあるが定かでない)。
〈戦国期を生き抜く〉
 「美濃を制する者は天下を制す」と形容された戦略上の要地にあり、斎藤 織田 豊臣 徳川と変転する時代の主役たちの間で戦国武将から大名へと成長した稲葉氏の歴史はけっして平坦なものではなかった。西濃三人衆の一人に数えられ戦国武将としての稲葉氏の地位を確立した 一鉄(いってつ)( 良通(よしみち) 長通(ながみち))も、父 通則(みちのり)と兄たちの戦死により急きょ家督を相続するという形で武将として出発した。その後、土岐 斎藤と主家を移し永禄10年(1567)信長の美濃侵攻後は彼の下で元亀4年(1570)の浅井 朝倉攻めなどに武功をあげる。一時信長に 誅殺(ちゅうさつ)直前の状況まで追いつめられるがその文才を認められ一命を助けられる。本能寺の変後は小牧山 長久手(ながくて)に転戦し、秀吉と家康との融和に尽力しつつ自らの地位を守っていった。時の権力との微妙な関係を巧みに処理しながら地位の保全を図る姿勢は彼の子 貞通(さだみち) にも受け継がれる。 関ヶ原の戦い に際し彼は織田秀信属下の西軍にありながら交友のあった 井伊直政(いいなおまさ)を介し家康に内通、西軍の長束正家の居城を攻略した。八方美人的こうした行為は卑下されるものでなく、むしろ時代を見抜く先見性として評価される。
〈藩政機構の整備〉
 元和元年(1615)の大坂の陣の豊臣氏滅亡により戦国の世は完結、泰平の世が到来する。幕府、諸大名にとって軍事社会を根底にしつつ、現実の泰平に対応しうる支配機構を整備することが急務となった。4代藩主 信通(のぶみち) と5代 景通(かげみち) による臼杵藩政整備はまさにこの課題克服作業であった。寛永19年(1642)藩主の座についた信通は翌年から大幅な 番方(ばんがた) (軍事組織)の整備に着手する。これによりそれまで5組であった 家中先手組(かちゅうせんてぐみ)(遊撃部隊)は6組に増強され、また旗本組(藩主側近部隊)に 旗本備之役者(はたもとそなえのやくしゃ)が追任された。この改革により豊後転封以後の新規登用家臣を含む全家臣が原則として番方の中に組織された。彼はさらに正保4年(1647)に「 家中人積(かちゅうひとづもり)」という藩独自の軍役規定を設定し 石高(こくだか)に応じた軍備を家臣に課していく。なおこの軍役は寛永10年幕府が旗本 大名に出した軍役令を基準に作成されたものと考えられるが、前者の方が全般に重いものになっている。これは「もし軍役不足の族これあるにおいては、 急度曲事(きっとくせごと)たるべし。軍役のほかは 嗜(たしなみ)次第召し連れ忠節たるべき者也」(『徳川禁令考』)という幕府の意向を踏まえたものであろう。続いてなされた延宝2年(1674)より始まる景通の 藩政改革 では、 持筒頭 の設置、家中先手組の副隊長配置といった番方の一層充実に加え家中向けの 法度(はっと)による家臣統制の強化と 役方 (行政組織)の整備がなされる。延宝8年「郡邑を巡見、居民の難苦を聞」くための諸色 目付 の設置や貞享4年(1687)これまで 郡(こおり)奉行 の職務であった年貢事務を 代官 の職務に変更するなど民政の充実が図られた。また藩財政悪化に対処するため銀奉行 元〆(もとじめ)、六奉行元〆、御勝手元〆の設置などに取り組んだ。こうして信通 景通2代の藩政機構整備により稲葉氏は戦国武将から泰平の世の大名として転進を遂げた。
〈 百姓一揆 〉
 18世紀以降災害による減収、農村疲弊による年貢未進の増加、幕府課役による支出増などのため藩財政は急速に悪化した。諸 運上(うんじょう) の新設などによる収奪強化を図った藩に対し、享保17年(1732)、元文2年(1737)と打ち続いた凶作で追いつめられた農民は元文3年立藩以来初めての大規模な百姓騒動を起こし抵抗する。19世紀初頭の文化年間(1804〜18)の初めには 中西右衛門 武英(たけひで) の主導により財政再建が進められた。俗に「 文化の新法 」とよばれるこの政策は、諸運上の新設による増徴と城下遠在の農村での商業認可によって商業振興の中で農民余剰の吸い上げをしていこうとする収奪強化にほかならなかった。そのため文化8年(1811) 岡藩 四原(よはる) (竹田市、荻町)から発生した一揆に呼応し臼杵でも大規模な百姓一揆となった。藩では中西右兵衛を罷免、新運上の廃止をする一方で主謀者曽右衛門をはじめ死罪5人、永牢1人、村預け囲入れ2人などの厳しい処罰で一揆を鎮静化するが財政再建の方策はふり出しに戻った。
[木本 邦治]

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