神子栄尊 ( じんしえいそん)
臨済禅を広めた円通寺開山
1195−1272 天台兼修の 臨済(りんざい)僧、円爾(聖一国師)法嗣。道号は神子、諱は栄尊(一説に号は栄尊、諱は口光)、俗姓平氏。建久6年(1195)6月26日筑後国 三潴(みずま)荘夜明村で誕生。父は治承元年(1177) 清盛(きよもり)討伐の 鹿(しし)ヶ谷謀議で知られる平 康頼(やすより)、母は筑後国三潴荘の住人藤吉 種継(たねつぐ)の娘。
〈修行の旅〉
7歳の時、筑後国柳坂の永勝寺にいた厳琳(栄西の弟子)につき13歳で得度、天台を学んだ。16歳で壇に入り僧となる。20歳で肥前国 小城(おぎ)山松山に茅を結び、専ら浄土の業を3年修行した。建保5年(1217)23歳の時に、 宇佐宮 に詣で、「幼い時から修行し、無心の方法を思惟してきたが、名相に滞って出離に暗い、何とかして四病根を免じ実相を証したい」と、飲食を忘れて祈ること七日にして、聖僧が現れて次のように諭された。「出離の法を求めるならば、 汝(なんじ)の縁はここにはない。衣を 更(か)えて東の方へ行けば、願いがかなえられよう」と。衣を更えるということは、禅法を学べということだと、栄尊は悟った。29歳の時、栄朝が栄西の門人で、禅法を伝えていることを聞き、円爾弁円(聖一国師)とともに 上野(こうずけ)国の長楽寺に至り、栄朝に師事した。10年後に円爾とともに長楽寺を辞し、入宋の志をもって伊勢に参り、厳琳の永勝寺に戻り母に会い、嘉禎元年(1235)41歳にして円爾と商船に乗って平戸を出発、江南の禅関を歴訪して経山に入り、仏鑑禅師に参じ、嘉禎4年(1238)44歳で帰朝。翌年、熊野に出向き、仁治元年(1240)肥前国河上宮に帰り、水上山興聖万寿寺を創建し開山となった。寛元3 4年(1245〜46)に筑後国朝日寺を整備。建長元年(1249)肥前国の報恩寺を建て、同4年には妙楽寺から朝日寺に帰った。同5年宇佐宮荘園の本家二条 良実(よしざね)に大乗戒を説き、良実は神子栄尊に弟子の礼をとっている。康元 正嘉 正元 文応ころは、京都と九州を往復して布教に努めていたらしい。また、文永4年(1267)二条相国に戒を授け、翌年には当時の八幡検校も弟子の礼をとり 頂相(ちんぞう)をつくり、相国に賛語を求めている。
〈円通寺開創〉
鎌倉初期の禅宗は、豊前国では宇佐宮との結びつきにより浸透していった。寛元元年(1243)神子栄尊は、 円通寺 を開創した。当寺は 宇佐 大宮司(だいぐうじ) 宇佐 公仲(きみなか) が神旨を得て七堂 伽藍(がらん)を造営、円通広利禅寺と称し、神子禅師が開祖となった。当寺は、宇佐宮の北方約500m行った直線道路(円通寺道)の突き当たりに位置している。ここには 八幡大神 の神位牌を安置し、門前を馬に乗って通ることや葬列が通ることが堅く禁じられ、宇佐宮といかに緊密な関係を維持していたかが知られる。寛元元年栄尊は49歳の時に渡宋成就のお礼のため、宇佐宮に 参詣(さんけい)した。この折り、大 菩薩(ぼさつ)は神師の号を与えられたが、余りにも恐れ多いとの理由から、後に神師の師の字を子にして、神子と改めたという。天明7年(1787)の「臨済宗本末帳」によると、円通寺の末寺として、宇佐郡内の 光隆寺 永松寺 戒光院 永福寺 瑞泉寺 堆泉寺 西光寺 の7か寺が確認できる。
〈宇佐弥勒寺金堂の改営〉
当時の宇佐宮 弥勒寺(みろくじ) は、平安末期の 緒方 惟栄(これよし) の乱入やその後の回禄( 火災 )などで荒廃し、造営も困難を極めていた。宝治元年(1247)栄尊は、宇佐弥勒寺の金堂の改造を思い立ち荒草を切り払い、自ら山林に入り資材をそろえていたことが判明する。金堂は建久3年(1192)の回禄以来、 祐清(ゆうせい) が薬師を作りまた 磬(けい) を寄進していることから、仮堂が建てられていたと推定される。このころ、栄尊は 妙楽寺 を開創し、そこに居たことが確認できる。当寺は木ノ内の妙楽寺(宇佐市大字木内)とされていた。しかし、寛永5年(1628)の 宇佐宮絵図 (永青文庫蔵)に妙楽寺が描写されており、宇佐宮境内に存在していたことが判明した。弥勒寺金堂を改造するため、ここを本拠としたのであるが、ついに金堂の完成はできず、朽ち損じたようである。文永9年(1272)12月28日疾を得て、端座して入寂した。時に78歳であった。神を 憚(はばか)り、門人により役官川( 駅館(やっかん)川 )のほとりで 荼毘(だび)(火葬)にふされた。宇佐郡に臨済禅を伝えたのは、この神子栄尊が初めてである。法嗣には、 亨菴宗元 徹叟道映 一関祖丘 神光了因 などがいる。
〈神子栄尊の頂相〉
円通寺には、開山神子栄尊の頂相頭部残欠(宇佐市指定有形文化財)がある。この頂相頭部の面 貌(ぼう)には、中国に渡って厳しい修行に耐え、弥勒寺の復興に力を尽くし、禅宗普及に全力を投入した情熱がひしひしと感じられる。頂相頭部の内側には、建武4年(1337) 天文10年(1542) 天保8年(1838)の墨書銘がある。建武4年の銘文によって、僧知改が発願勧進し造立したものであることがわかる。この面相は、生存当時に描かれていた頂相画などによって、写されたものと推察される。
参考文献 『宇佐市史』中巻 「栄尊和尚年譜」 「水上山萬壽開山神子禅師行實」
[乙・ 政已]
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