人畜改め ( じんちくあらため)

慶長・元和の住民台帳

 江戸時代、領主が領内の実態などを把握し、領主権力を確立するために作成したもの。「 検地帳 」が土地を基本として領内を把握しようとしたのに対して、「人畜改帳」は人を基本として把握しようとしたものである。 細川氏 が小倉在城時代に実施した「 小倉藩人畜改帳
」(『大日本近世史料』所収)は著名。
〈人畜改め、細川氏により実施〉
  細川 忠興(ただおき) は、慶長14年(1609)と慶長16年に人畜改めを行った。つづいて、新藩主となった 細川 忠利(ただとし) は、元和8年(1622)、城下町小倉と支城のおかれていた中津など一部を除き領内の人畜改めを実施した。調査内容は、百姓 名子(なご) 下人などの階層、 山伏(やまぶし) 大工 鍛冶 紺屋などの職業、そして年齢 性別 健康状況などについて記載し、地域によっては村高 家数 人数 牛馬数 村役人など詳細に記されているものもある。そして、細川氏は寛永9年(1632)肥後熊本に移封されると、翌年には領内全域にわたって同様の調査を実施している。また、細川氏から 小笠原氏 へと領主のかわった 中津藩 においても、延宝8年(1680)人畜改めの系譜を引く「 高畝人畜改め 」が実施されている。
〈人畜改帳の語るもの〉
 「小倉藩人畜改帳」は、近世初期の家構造 村落構造 職業構成を知るための人口統計資料として一級のものである。元和8年の人畜改帳から、小倉藩領下毛 宇佐 国東 速見4郡における民衆の存在形態についてみてみよう(『大分県史』近世篇U)。各郡の記載は、家数と人数を記している下毛 国東郡、家数記載のない宇佐郡、各家の家族構成も記している速見郡というように異なっている。惣庄屋数にしても、宇佐 国東郡には各々15人 11人配置されているが、 本百姓 小百姓の項に繰り入れられいる。 山ノ口 も同様である。記載内容を全体的にみると、農民(本百姓 小百姓、名子、山ノ口)が圧倒的な比率を占めていることに気付く。全家数に対する本百姓 小百姓の家数の比率は、国東郡では90%近くにもなっている。村々が散在している傾向が強く、農業を主体としているためである。農民内部の階層は、本百姓 小百姓と名子に分けられている。このほかに、従属農民である下人もいるが、独立して家数記載はされていない。宗教関係者をみると、宇佐郡が特に多くなっている。 宇佐神宮 の関係者が多いためである。職人をみると、村の代表的な職種である大工、鍛冶、紺屋が多くなっている。大工と 番匠 はほぼ同一である。全体として職人は、宇佐郡に多く分布している。また、塩売 ざるかたげなどの行商人も宇佐郡に集中している。中世以来の宇佐郡の先進性の反映であろう。町人は、宇佐郡ではかつて 大友氏 が豊前支配の本拠とした 龍王(りゅうおう)( 安心院(あじむ)町)、国東郡の2箇所など限られた場所で登録されている。 牢人(ろうにん)は、宇佐郡を中心に各郡にかなり分布している。牢人とは、帰農した者をさすのであろうか、兵農分離の中における牢人の存在意味は、今後の解明が待たれる。
〈人畜改めの意義〉
 細川氏は、慶長6年、領内全域において徹底した 検地 を実施した。この検地における家数は、人畜改めにおける家数と大きなズレがある。例えば 月俣村 (院内町)では、検地帳記載の名請人は59人、人畜改帳の家数は本百姓 小百姓12、名子11、牢人1となっているのである。検地帳の記載をさらに詳細にみると、15人が7反以上を名請けしており、5〜7反の者が8人いる。これらを人畜改めの家数と比べると、本百姓 小百姓と牢人を合わせたものが7反以上とほぼ一致し、名子を含めると5反以上とほぼ一致するのである(『院内町志』)。このことは、人畜改めが、村内名請人のすべてを掌握しようとしたものではなく、独立再生産が可能な7反以上の土地保有者を掌握しようとしたものであることを示している(豊田寛三「中津藩の成立と支配」『歴史手帖』6−6)。また、人畜改めでは人数に関して、「拾五ヨリ上ノ男」 「拾五ヨリ下ノ男」と「女」という項目で調査している。これは、労働力を提供できる成年男子の人数調査といえる。これらのことは、人畜改めが男を中心とする夫役などの稼働労働力を掌握しようとしたものであったことを示している。さらに、別の形で夫役を提供する職人らを別記していることからも裏付けられる。こうして調査された労働力は、 小倉池 を中心とする 溜池(ためいけ) 普請や 井路 普請に用役されたのである。
〈人畜改めと宗門改め〉
 寛文4年(1664)以降、幕府の命令によって全国で 宗門(しゅうもん)改め が実施されることになった。宗門改めは、徐々に夫役負担のための人別改めを兼ねるようになっていった。これにより人畜改めがなくなった訳ではないが、戸籍台帳として 宗門改帳 が使用されることが多くなっていったのである。
[佐藤 晃洋]

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