菅尾石仏 ( すがおせきぶつ)

熊野信仰と磨崖仏

 三重町菅尾地区大字浅瀬にある菅尾石仏は、通称岩権現あるいは五所権現と呼ばれ、間口5間、奥行2間の覆堂奥の 凝灰岩(ぎょうかいがん) 壁に、幅約9m、天地約4mの石 龕(がん)をうがち、計5躯の仏像を刻出する。
〈配列と像容〉
 像は向かって左から 千手観音 薬師如来 阿弥陀(あみだ)如来 十一面観音 の4躯が、いずれも方形の 裳懸(もかけ)座上に 結跏趺坐(けっかふざ)する姿に彫出され、右端のやや斜め向きの壁面には、 毘沙門天(びしゃもんてん) の立像が以上の4躯に付き随うかたちで表される。千手観音(像高194.0p)は、頭上に宝冠と11個の小面を刻み、肉づきのよい丸顔の面相は穏和な円満相を示し、体部前面の主要な三対手のほか脇手は左右合わせて40手を数える。胸飾 臂 釧(くしろ) 腕釧など飾物の表現は一切なく、簡素な造型となっている。薬師如来(像高176.0p)は、前像と同工の円満相に 偏袒右肩(へんたんうけん)の衲衣を着し、右手を 施無畏印(せむいいん)に結び、左手は膝上に置いて薬壷をのせる。阿弥陀如来(像高182.0p)は、全体の造型から細部の表現まで薬師像と同工である。撫で肩の体躯に偏袒右肩の衲衣を着し、両手は膝上に置き阿弥陀の 定印(じょういん)を結ぶ。十一面観音(像高188.0p)は、頭上に宝冠と11個の小面をつけ、右手は膝上から前面に垂下させて念珠を執り 、左手は膝上にあって蓮茎を握る。 毘沙門天(びしゃもんてん)(像高139.0p)は、眉間に 皺(しわ)をよせた 忿怒(ふんぬ)相に体躯には 甲冑(かっちゅう)を 纏(まと)う。腰を大きく左にふり、右手は体側にそわせて宝剣を執り、左手は高く挙げて宝塔をささげ持つ。他像に比べ小規模で浅彫りであるが、力強く躍動的である。坐像4躯は、くびれのある火焔 光背(こうはい)を負い、方形の台座は正面 側面にゆったりと自然なかたちで懸裳を垂らす。各像とも奥行深く、丸みのある円満相に刻まれた眼鼻立ちは小づくりで気品があり、撫で肩の体躯から張りのある膝にかけての肉取りも量感に富んで安定している。このような造型上の特徴から、本像の製作時期は、12世紀後半、 臼杵ホキ石仏 よりやや降るころとみられる。
〈熊野信仰との関係〉
 本磨崖仏の千手観音 薬師如来 阿弥陀如来 十一面観音 毘沙門天という独特な尊像配列については、従来より熊野信仰との関連から、その 本地仏(ほんちぶつ)を表すものとされる。すなわち、熊野三所権現(本宮 速玉宮 那智)の祭神 家津御子(けつみこ)神 速玉(はやたま)神 夫須美(ふすみ)神の各々の本地仏阿弥陀 薬師 千手観音に、五所王子の第一位である若一王子(十一面観音)を加え、さらに熊野十二所権現の一つである米持金剛童子(毘沙門天)を配したものである。ただ、この解釈では、なぜ三所権現の本地とその末社である若宮王子の本地が同格に扱われ、またなぜ十二所権現のうち米持金剛が特に選ばれたのかという疑問は残る。たしかに、熊野信仰の本迹関係を図像に表した熊野 曼荼羅(まんだら)図においては、三所権現のみが大きく扱われ、五所王子や十二所権現はそれらに付随するものとして小さく画かれるのが通常である。しかし、この点については、すべて鎌倉時代以降の遺品しか現存しない熊野曼荼羅図の中にあって、比較的平安期の図相をよく伝えているとされる兵庫県湯浅神社本は、三所権現の本地阿弥陀 薬師 千手観音と若宮の本地十一面観音の四仏を同列同格のものとして画いており、熊野信仰の本迹思想が成立、一般化しはじめる平安時代末期には、本磨崖仏のような図像配列も存在したと考えられる。また、毘沙門天についても、とくにこれを米持金剛の本地を表すものと考える必要はなく、仏法や仏世界を守護する仏としての毘沙門天の一般的信仰に根ざしたものと考えるのが妥当であろう。
〈製作年代と造立者〉
 菅尾石仏の造立された12世紀後半、 国衙領 であった 三重郷 を含めて周辺一帯を事実上支配していたのは隣接緒方荘を本拠とする 緒方氏 である。緒方氏は、「 大神系図 」などによれば、4代 惟隆(これたか) とその弟 惟栄(これよし) ( 緒方三郎 )のとき最も勢力を拡張したようである。特に惟栄は、兄惟隆が 臼杵姓 を名のり、同方面を 本貫(ほんがん)としたのに対して、 緒方荘 一帯を支配し、 源平合戦 にあっては、平氏追討のため西国に下った源 義経(よしつね) 範頼(のりより)らと通じてその勇名をはせたことはよく知られている。惟栄が生まれたのが12世紀前半から中ころにかけてとみられ(渡辺澄夫『源平の雄 緒方三郎惟栄』)、12世紀後半の菅尾石仏造立時期には最大の活躍期にあったと思われる。それも、肥後の 菊池 隆直(たかなお) とともに平氏に謀反を起こした治承4年(1180)以降、とくに源平の合戦が本格化する文治年間以後は考えられず、石仏の様式的推移から判断して、臼杵ホキ石仏に引き続いて造立されたとみられる同堂ヶ迫石仏とほぼ同時期の1170年代ころの製作と考えられる。
[渡辺 文雄]

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