住居 ( すまい)

在中樌屋は無用

〈 居屋(おりや)と付属建物〉
 民家は生活の中心となる居屋( 主屋(おもや) 母屋(おもや))と、 馬屋(まや) 納屋(なや) 土蔵などの付属建物から構成されている。しかし江戸時代の 二豊(にほう)の例をみると、ほとんどが居屋だけか、せいぜい馬屋 納屋(同一建物を壁<ネリベ>で区切る)を持つ程度であった。次表は明治17年(1884)の 深田村 (臼杵市)の家券(税に関する基礎資料)から作成したものである。明治期の資料ではあるが、大半が江戸時代の住居とみてさしつかえあるまい。居屋のみ、居屋と馬屋という家が全体の80%を占めている。明治18年の 馬原(まばる)村 (天瀬町)の「建物明細帳」の場合も、居屋と 厩(うまや)などの付属建物の2棟からなる家が全体の約77%を占めている。ただしこの村の場合は、居屋と厩が土間をへだてて接する 内厩(うちうまや)も分布しており、同じ屋根の下に居屋と厩が接するのである。このような様式の建て方は下毛郡から日田郡一帯にかけて分布している。寛文2年(1662)の『豊後国杵築藩姫島村屋敷畠検地帳』に各家ごとの建物名が出ている。居屋以外の付属建物名をあげると次のようになる。もちろんすべての家にこれらの建物があるというわけではない。@庭屋(作業場)A灰屋(肥料小屋)B馬屋C馬屋 灰屋D 産屋(さんや)E井戸F 遍屋(へや)GつぼねH裏屋IゆどのJ舟蔵K塩蔵L薪屋である。どのような機能を有するか不明のものもあるが、D産屋はヨワと呼ばれ、村内に40棟分布している。出産の時に別火生活をするための小屋で、約4坪(13u)の広さである。F遍屋Gつぼねについては、隠居屋の意と思われる(『大分県史』民俗篇)。居屋の型は、棟がまっすぐになった 直屋(すごや)がほとんどであるが、馬原村では 鍵屋(かぎや)の分布もみられる。屋根は 茅(かや) 麦稈(むぎわら) 藁(わら)などでふいた草屋根が主体である。しかし中津藩では、享保年間(1716〜36)に火災予防のために町家の屋根を瓦ぶきにするよう奨励している。 庇(ひさし)の部分だけに瓦を使用することは早くから行われている。文化6年(1823)の 臼杵藩 の家作制限に「瓦庇停止のところ」とあり、19世紀前半には瓦庇の農家が出現している。 貝原益軒(かいばらえきけん) (1630−1714、儒者、福岡の人)の『 豊国紀行 』に「別府あたりには家の棟に芝を置て、 一八(いちはつ)と云花草をうへて、風の棟を破るを防ぐ」とある。棟に 菖蒲(しょうぶ)や一八を植えた例は昭和初期まで見られた光景である。壁は土壁で、窓もほとんど無かった。
〈居屋の広さと間取り〉
 居屋の面積であるが、深田村の場合は平均約18坪(59.4u)、馬原村は平均約22坪(72.6u)である。 大塔(おおと)村 (大分市)の場合は、縦2間から3間(3.6〜5.4m)、横3間から5間(5.4〜9m)であった。いかに小さい家であったか見当がつく。間取りについては、馬原村の「建物明細帳」で知ることができる。全国的にみると田の字型(整型四間取り)が基本となっているが、最初から四 間(ま)取りであったわけではない。面積も広く、多くの機能を持つ 一間(ひとま)が、しだいに機能別に分化し、 二間(ふたま) 三間 四間と発展していくのである。馬原村303戸の部屋数をみてみると次表のような分布になる。圧倒的に四間取りが多いが、一間取り 三間取りも多い。一間の家は土間と座の部分に分かれる。玖珠町山浦では明治時代の一間取りの家には、座と土間の区別があったが 床(ゆか)の無い 土座(どざ)住い(地面に直接むしろなどを敷く)の家があった。江戸時代の家も同様の家があった可能性は強い。 古川 古松軒(こしょうけん) は、天明3年(1783)の「 西遊雑記 」の中で、豊後は豊前より大国だが風土は劣ってよくないとして「在中山分に入りては、草履わらぢもはかずして、外より帰りても洗ふといふ事もなくて其のまま床の上にあがる事なり」と記している。一間土座住いの家のことをさすのかもしれない。一間を仕切って二間になると、一方は夫婦の寝室いわゆるナンドとなる。馬原村の場合、四間になるとオモテ(広間) ナカエ(居間) 座敷 ナンドとなり、ナカエに 囲炉裏(いろり)を切る。土間(ニワ)は農具 穀物の置場や作業場を兼ね、奥の部分にクドを設ける。床は竹床で、天井は真竹を組み並べた上に壁土を塗ったヤマト天井であった。
〈家作制限〉
 臼杵藩の法令に、家作制限に関するものがあるのでいくつかあげておく。@家宅は 掘立(ほった)て、A家造は荒 鉋(かんな)立て、土蔵 納屋 馬屋は鉋掛け無用、B雨戸袋 長押(なげし)は分不相応、C壁の 漆喰(しっくい)は無用、 菰(こも)囲い、D建具は庄屋は軽襖、畳は 七嶋(しっとう) 、その外の者は障子 板戸 茅畳 莚(むしろ) 、などである。しかし家宅は礎石を使う 樌屋(ぬきや)も建てられており、後には公認されるようになる。
 参考文献 『九州 沖縄地方の住居習俗』
[小泊 立矢]

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