弥生時代 ( やよいじだい)
弥生時代 概観
〈弥生文化のはじまり〉
紀元前3〜4世紀のころ、1万年にもわたってつづいた縄文時代の社会に、大きな変動がおこった。イネと鉄という言葉に象徴される弥生時代のはじまりである。ここでイネ、すなわち水田耕作を主体とする農耕のはじまりは、日本の歴史上最大の変革であったといって過言ではない。それは人々が、食料採集民から食料生産民に転換したことを意味する。 農耕文化 の導入によって、人々は一つの場所に永く定住することが可能となった。食料や生活物資の余剰生産物の不均衡な蓄積は、社会の階層化を促進する契機となった。
こうした新しい社会を優位に生きぬくための大きな武器となり利器となったのが鉄に代表される金属器の導入であった。その素材や製品を手に入れるためには、朝鮮半島との交易を必要とした。そこに外交 貿易という新しい国際関係も生まれた。集落の発達、その間の勢力の不均衡の発生、そこに生じる支配と被支配、そうした情勢の中で、各地に小国家(クニ)とよぶべきまとまりが形成された。こうしたクニグニが互いに同盟しあるいは争い、次第に大きな統一体に進んでゆく過程、それが弥生時代であった。
いうまでもなく、この新しい文化は、中国から朝鮮半島をふくむアジア的な規模の大きな歴史のうねりの中でまず北部九州にもたらされた。従来、この弥生文化は福岡県 板付(いたづけ)遺跡のいわゆる 板付T式土器 の時期にはじまるとされていた。しかし昭和53年にこの板付遺跡の板付T式の文化層の下、つまり 夜臼(ゆうす)式土器と呼ばれる 刻目突帯文土器 単純層から水田遺構が発見され注目をあつめた。その後佐賀県菜畑遺跡や福岡県曲り田遺跡においても、板付T式土器を含まない刻目突帯文土器の文化層に水田遺構が発見された。これによって弥生時代のはじまりをこの刻目突帯文土器の時代にさかのぼるとする考え方が有力となってきた。
板付遺跡や菜畑遺跡でみるかぎり、この弥生時代早期の文化は、水田を経営する農耕文化として、その伝来の当初からきわめて高度な水準をもっていた。すなわち木杭等を使って整備された 潅漑(かんがい) 施設、耕作具としての 鍬(くわ) や柄振、穂摘み具である 石包丁 、開発 伐採用具としての 扁平片刃石斧(へんぺいかたはせきふ) や 太型蛤刃(ふとがたはまぐりば)石斧 などがそろっていた。
〈大分への 伝播(でんぱ)と定着〉
大分県下では、これまでのところ、板付遺跡や菜畑遺跡のそれと並ぶ最古の水田遺構は発見されていない。ただこの時期と平行すると見られる刻目突帯文土器を持つ遺跡は、点々と発見されている。このうち竹田市 小園遺跡 、犬飼町 神宿遺跡 など主として 大野川 流域に分布する遺跡は、その立地や石器の組み合わせ等から見て、縄文文化の継続としてとらえるべきものと思われるが、大分市 下黒野遺跡 稙田市(わさだいち)遺跡 、宇佐市 虚空蔵寺(こくぞうじ)遺跡 などの場合は、その立地等からみて弥生文化の要素をなんらかの形で受け入れていた可能性のある遺跡である。
しかしいずれにせよ大分県では、刻目突帯文土器単純層の文化はもちろん、これにつづく板付T式の文化も、大きな広がりをみせていない。県下の各地に、ある程度の規模をもった弥生時代集落や墓地が展開し、水田耕作を生業とする人々の生活が定着したのは、弥生時代前期の後半、北部九州で板付U式土器の時期とされる時期から中期はじめのころにかけてのようである。そのことを証明するように県下各地に、この時期の注目すべき遺跡が出現する。 集落跡 を主体とする遺跡では 中津平野 をのぞむ丘陵上にある 森山遺跡 (中津市)、 袋状 竪穴(たてあな) と呼ばれる貯蔵穴が多数発掘された 台ノ原遺跡 (宇佐市)、いわゆる 環濠(かんごう)集落 の可能性が指摘された 東上田遺跡 (同)、福岡市今山の 玄武岩(げんぶがん) 製太形蛤刃石斧はじめ多彩ななど 磨製石器 の出土で知られる 吹上遺跡 (日田市)、大分平野を代表する集落跡として知られる 雄城台(おぎのだい)遺跡 守岡遺跡 (大分市)などのほか 米竹遺跡 尾崎遺跡 (大分市)、 白潟遺跡 (佐伯市)、 宮ノ原遺跡 ( 安心院(あじむ)町)等がこの期の代表的遺跡である。これらのうち県北の中津 宇佐地区や西部の日田 玖珠地方では、前期の板付式土器や中期の 城ノ越式土器 、 須玖(すぐ)式土器 など北部九州の影響の強い土器文化が展開するが、宇佐市以南、特に大分市周辺、海部地方、大野川流域等の地域では、刻目突帯文土器の流れをくむ 下城土器 という独特の 甕(かめ)形土器 を持つ文化が展開した。この下城土器文化圏の遺跡では、石包丁や太形蛤刃石斧など典型的な弥生時代 農耕文化 の遺物が質量とも少ない。おそらくこれらの地域では、恵まれた海幸 山幸を狩り、漁し、採集する縄文的生活がなお相当の比重を占めていたものであろう。なお大分市 下郡桑苗遺跡 では、昭和63年の調査で多量の 木製農耕具 などともに出土した獣骨の頭部が ブタの骨 と判定された。従来弥生文化には家畜の飼育をともなわなかったとされていた定説に根本的な問題を提起する画期的な発見であった。
一方 集落跡 に対応する墓地の遺構は必ずしも多くないが、 野口遺跡 樋尻道遺跡 (宇佐市)、 浜遺跡 (大分市)、 吹上遺跡 (日田市)等が注目される。北部九州の弥生時代を代表する埋葬形態である大型の成人用 甕棺墓(かめかんぼ) は日田市以外では普及しなかったらしい。宇佐市周辺の遺跡は 石蓋土壙墓(せきがいどこうぼ) や 土壙墓 を主体とするものである。
〈弥生文化の発展〉
北部九州や近畿地方では、弥生時代の中期に爆発的に遺跡が増大する。 農耕文化 が定着し、その結果得られた生活の安定と、これにともなう人口の急速な増大を背景に、耕地のの一層の拡大、集落の膨張と拡散が進んだのである。ただ大分県下では、この中期の時期にそれほど大きな飛躍と発展があった様子はない。県下の中期の遺跡の主なものは、そのほとんどが上記の前期後半からの集落の継続として確認されており、その規模にも目立った拡大 発展はうかがわれない。大分県下において遺跡の規模、数が飛躍的に増大するのは弥生時代後期、それもその後半になってからである。
〈高原の大集落〉
県下の後期の遺跡を見渡すとき、まず注目されるのは大野川上 中流域の遺跡群である。この地域は従来、縄文時代後期から晩期にかけての遺跡の集中するところとして知られていたが、昭和50年代のはじめごろから、畑地帯総合土地改良事業にともなう発掘調査によって、弥生時代〜古墳時代はじめころの集落の跡が相次いで発掘されたのである。特に注目されたのは大野川の最上流部にあたる竹田市 菅生(すごう)から荻町にかけての一帯である。この地域は、標高およそ500〜600m、阿蘇外輪山の東麓のスロープにあたるところで、 大野川 の支流によって開析された無数の 火山灰台地 に、大小の集落跡が展開しているのである。このうち菅生台地の 石井入口遺跡 、 小園遺跡 、荻町の 古賀遺跡 などは、この地域でも拠点的位置をしめた集落の跡と見られるものである。これらの遺跡は、その立地からして水田耕作を生業としたとは考えられず、むしろ畑作中心の集落であったと見られている。土器などからみると縄文時代の伝統をのこす保守的なものが多いが、その一方で多量の 鉄器 、中国製の 銅鏡 等、弥生文化の先進的要素はしっかりとり入れている。縄文時代以来の伝統の上に立って、地域の風土に適応した独自の弥生文化を育んでいたのである。こうした特異な弥生文化は、大野川の中流域にも展開している。すなわち 二本木遺跡 松木遺跡 (大野町)、 舞田原遺跡 (犬飼町)、 鹿道原(ろくどうばる)遺跡 (千歳村)等がその代表例である。特に鹿道原遺跡は、平成元年から2年にかけて工場建設にともなう発掘調査により、約4万uの地域から、250軒を超える 竪穴(たてあな)式住居跡 が発掘され、県下最大級の弥生時代集落として注目された。この遺跡では竪穴住居跡とあわせて、数多くの 掘立柱(ほったてばしら)建物跡 が発掘されている。これは高床式の倉庫と見られるものであるが、中にはこれが整然と並んだ状態で発掘されたものもあり、集落の性格を考える上で興味深い。
〈平野部の集落〉
もちろん弥生時代後期の集落や墓地は、県下の海岸部や平野部にも展開した。県北部の中津 宇佐地域では 朝鮮式小 銅鐸(どうたく) を出土した 別府(びゅう)遺跡 (宇佐市)、別府遺跡と 駅館川(やっかんがわ) をはさんで 対峙(たいじ)する位置にあり、付近から 銅矛(どうほこ) 、 銅鏡片 を出土した 上原遺跡 (同)、中津市の山国川右岸の自然堤防上にある 上万田遺跡 等がある。また前期に成立した宇佐市の 東上田遺跡 や 台ノ原遺跡 などの有力な集落は後期に継続している。 国東半島 では、昭和2■年から5次にわたって行われた発掘調査によって、多量の 木器 を出土し、西の登呂といわれた 安国寺遺跡 がある。ここでは昭和■年の調査により、高床式倉庫の建築部材がまとまって出土し、さらにその評価を高くした。
後期の有力な集落が前期後半〜中期の集落の継続ないし発展としてとらえられる例は、日田 玖珠地域や大分平野周辺でもしばしば見られる。例えば大分平野周辺で見ると、 大分川 をのぞむ台地上にある 雄城台(おぎのだい)遺跡 や 守岡遺跡 、大分川下流左岸の沖積地にある下郡遺跡や 羽田遺跡 、大分市東部の 乙津川 をのぞむ台地上にある 多武尾遺跡 などがその例である。その多くは、後期になって集落の規模が大きくなり、これを構成する住居の密度も飛躍的に高くなっており、弥生時代後期における地域の発展ぶりを示している。特に多武尾遺跡はじめ雄城台遺跡、下郡遺跡などでは集落を囲むとみられる溝が発掘されており、いわゆる 環溝(かんこう)集落 の展開を示すものとして興味深い。
〈青銅のまつり〉
弥生時代は農耕の時代である。農耕を営むムラムラでは、開墾、種まき、作物の手入れ、収穫等の作業の諸段階にあわせて、さまざまな祭り(まつり)が行われた。一つのムラの内のまつり、ムラとムラを結ぶ儀式としてのまつり。こうしたまつりにあたって大きな意味をもったのが青銅器であった。弥生時代の九州では、銅矛、銅剣、 銅戈(どうか) などの武器形祭器が知られる。銅矛 銅剣 銅戈等は、もともと朝鮮半島からもたらされたものである。伝来の当初は武器としての性能を十分に備えたものであったが、わが国では実用武器としてはほとんど利用されず、権力や勢力の大きさを反映する祭器として普及していった。
大分県下では、出土地の不明確なものを含めれば90本余りの銅矛、銅剣、銅戈が出土している。このうち銅矛と銅戈形の祭器は、福岡平野周辺の限られた地域で製作されたと見られているが、それが大きく二つのルートを経て大分に伝えられたようである。一つは北部九州から関門海峡〜 周防灘(すおうなだ)〜国東半島海岸〜大分平野や海部地方に至るルートである。このルートには、祭器として最も発達した形態の 広鋒銅矛(ひろほこどうぼこ) が分布する。今一つのルートはやはり北部九州から筑後川を経由して日田〜玖珠とのびるルートである。これらの地域では 中広銅矛 が分布する。このほか大分市東部の浜遺跡では、瀬戸内海沿岸に多い中広銅剣、同じく 清水迫遺跡 では、これも瀬戸内地方に多い 平形銅剣 が出土している。また宇佐市別府遺跡の朝鮮式小銅鐸、大分市多武尾遺跡の 小銅鐸 も注目すべき遺物である。またこれら武器形祭器のほかに、県下各地の弥生時代後期の集落から銅鏡の破片が30例近くも出土し注目されている。
〈ムラからクニへ〉
弥生時代、それは 農耕文化 の定着と発展を背景として、全国各地に有力な地域集団が成立し、その複数の結合した小国家=クニが形成され、やがて次第に統合されていく時代である。『漢書』や『後漢書』には萌芽的な倭人のクニの存在が記されている。さらに3世紀の倭の様子を記した「魏志」倭人伝によれば、そのころ魏の帯方郡と通交するクニはに30国にのぼった。これらのクニグニは 邪馬台国(やまたいこく) の 卑弥呼(ひみこ) を女王として共立していた。この邪馬台国の所在をめぐって永い論争があり、今日に至っていることは周知のとおりである。この邪馬台国を県下の地域にあてる説も出されてる。特に宇佐説がよく知られているが、特に考古学的には、これ支持することは難しいといわざるを得ない。
ただ、いずれにせよ大分県下でも、農耕文化の定着 発展にともなう集落の飛躍的な増大を背景として、各地に強い文化的地域性をもったまとまりがいくつか形成されつつあったことは確かなようである。それが倭人伝にいうようなクニに対応するものであるかどうか、今後の研究課題といえよう。
[後藤 宗俊]
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