稲用氏 ( いなもちし)
猪山八幡社の社司
〈稲用の由来〉
下毛郡には稲のつく地名や苗字が多い。稲男 稲垣 稲数 稲月 稲留 稲益 稲富 稲豊利 稲重などがそれで、平安末期の 名田(みょうでん)に関係するものであろう。それも 宇佐氏 一族が開発した名田に 仮名(けみょう)として付けられたものと思われる。稲用も現在、西 秣(まくさ)(三光村)の字にあり、この付近を開発した 大宮司(だいぐうじ)家宇佐氏の名田であったと考えられる(「 広崎文書 」)。
〈野仲 弁分(べんぶ)と稲用氏〉
「 稲用文書 」によると、 野仲弁分 は嘉禄2年(1226)に初見する 野仲郷 とは別納の地で、この付近にあった 秣糸永名(まくさいとながみょう) 乙王丸名 の領主 益永(ますなが)氏 ( 宇佐宮 政所惣検校(まんどころそうけんぎょう) 宇佐氏)の所領であった。鎌倉初期、 益永 清輔(きよすけ) (政所惣検校)は子息 経輔(つねすけ) (秣領主)へこれを譲ったが、母に先立って死去したために、妹 宇佐三子 へ伝領され、更にその女子が 宇佐大宮司 公仲(きみなか) の子息 公成(きみなり) (擬大宮司)に嫁いで、その子息 公邦(きみくに) へ譲った。公邦は社家へ 安堵(あんど)を申請し、大宮司公仲の安堵と神官の署判をうけて稲用領となった。稲用氏は大宮司公通の孫公成を祖とする。 蒙古(もうこ)襲来 後は稲用氏も衰亡が甚だしく、弁分の田畠を 深水武藤三郎能氏(ふこうずむとうさぶろうよしうじ) などへ売却した。公成の孫 公豊(きみとよ) (擬大宮司稲用太郎)は弁分内4反20代を深水 上((マゝ))野入道へ売却したが、永仁5年(1297)の徳政令によってこれを取り戻し、他の田畠も永仁6年6月の 神領興行(しんりょうこうぎょう) 沙汰(さた)によって、乾元2年(1303)返還され、大宮司の安堵状を得た。また公豊が深水武藤三郎能氏に売却した3町3反の田畠は、正和元年(1312)の神領興行令によって、能氏の亡妻藤原氏買得分8反を除いて取り戻した。
〈猪山社と稲用氏〉
公豊の子息 公長(きみなが) は擬大宮司にして 猪山(いのやま)社 司職を帯し、 建武中興 の際、大宮司 宮成公右(みやなりきみすけ) に猪山免の田畠及び本領野仲弁分の安堵をうけた。猪山八幡宮は三光村大字田口字猪山にあったが、今は 箭山(ややま)神社 に 合祀(ごうし)されている。初見は承久3年(1221)で、「下毛庄検田目録案」に「猪山社上分田3丁 已成枝名」(「 永弘文書 」)と 下毛(しもつみけ)荘 内に猪山免3丁があり、当時 成枝名(なりえだみょう) と称するようになっていた。これが建武元年(1334)には稲用公長の所持分は弁分2町7反、成枝名は1町となっている。戦国初期の永正ころ(1504〜20)には、宇佐宮の宮番をこの近辺の 名主(みょうしゅ)に命じたところ、猪山免は稲用方が「多年不知行」(「永弘文書」)であるから、知行主に相談して勤めると 請文(うけぶみ)を出した。天文7年(1538)から天正14年の 成恒(なりつね)氏 の 下作職(げさくしき)中に猪山免の名が残っている(「 成恒文書 」)。 渡辺 重春(しげはる)の『 豊前志(ぶぜんし) 』は、猪山八幡社の由来を「 和気清麻呂(わけのきよまろ) が 配流(はいる)された時、猪が多数出て来て、清麻呂を負うて宇佐宮に詣で、猪は 八面山(はちめんざん) の 麓(ふもと)に入った。この故にその処に社を建て猪山八幡宮と称した」と語っている。江戸中期の宝永3年(1706)、田口村猪山八幡宮の社殿建立 遷宮をめぐって、社人 采女(うねめ)と氏子が対立した。氏子は秣村社人 稲持八右衛門 へ遷宮を頼むが受け合わないので、八面山の 神護寺(じんごじ) を頼み、宇佐宮社僧石垣坊 万徳坊を呼んで遷宮を行った。ところが、采女は 中津藩 の寺社奉行へ訴えて、遷宮を改め直した。そのため、采女と氏子が益々不和となり、同社拝殿の棟札には、神護寺氏子と記した。社人采女はこれを寺社奉行へ訴えて、8月16日、拝殿を破却し捨て去った(「 中津川由来記 」)。
参考文献 『中津市史』 『三光村誌』
[竹本 弘文]
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