雪舟 ( せっしゅう)

アトリエ・天開図画楼/てん,がい,ず,が,ろう・

 1420−1506 室町時代の画僧。わが国 水墨画 の完成者。 備中(びっちゅう)(岡山県)小田氏の出である。 諱等陽(いみなとうよう)、 字(あざな)雪舟。京に出て 相国寺春林周藤(しょうこうじしゅんりんしゅうとう)の弟子となる。ここで禅を学ぶと同時に、当時相国寺にいた 周文(しゅうぶん)について絵を学ぶ。のちに 大内氏 の 庇護(ひご)をうけ、応仁元年(1467)には遣明船で中国に渡る。長有声に色彩の法、李在に墨の使い方を学び文明元年(1469)に帰国。文明8年には豊後の地にアトリエ 天開図画楼 を開く。以後各地を歴遊し文明18年山口に帰り、 周防(すおう)の天開図画楼を築く。代表作「四季山水図」「天橋立図」「益田兼尭像」「恵可断臂図」等。
〈豊後への来訪〉
 雪舟の豊後来訪には、当時 万寿寺(まんじゅじ) に住していた 桂菴玄樹(けいあんげんじゅ) (室町後期の 臨済宗(りんざいしゅう) の僧、薩南学派のもとを開く)の影響が強かったと思われる。桂菴玄樹の著「 島隠渙唱()」の中に、彼が周防(山口県)にいた時から現在まで、変わらぬ友情を示しつづけている1人として雪舟の名をあげている。禅僧でもありまた画人でもあった雪舟は、1か所に定着することをあまり好まず、豊後に来る文明8年当時も漂泊の生活をしている。そのような時に豊後に足を留めたのは、親友桂菴玄樹がいたからであろう。あるいは玄樹が雪舟を招いたのかもしれない。しかし玄樹は雪舟が豊後に天開図画楼を開いた同年6月、「予豊城の乱を避けて筑後に入る」とあるように豊後を離れている。豊城の乱とは、大友氏の家督相続に起因する一族内の争いのことであろう。雪舟がどのくらいの期間豊後に滞在したかは不明であるが、親友の離豊が雪舟の滞在期間を短くしたことは考えられることである。ただしその間、天開図画楼には多くの人が訪問し、 沈堕滝(ちんだのたき) (大野町 清川村)まで足を運んでいるので、わずか数か月の滞在ということではあるまい。
〈天開図画楼〉
 豊後に滞在した雪舟は、府内(大分市)の地に天開図画楼と称するアトリエを築いている。天開図画ということばは、古く中国の 亭(ちん)(眺望のために庭園に設けた風雅な建物)の名として使用されている。それは主として、広々とした自然の景観をながめることのできる地にある建物に付けられているという。雪舟は友人である禅僧 呆夫良心(こうふりょうしん) に頼んで「 天開図画楼記 」を書いてもらっている。その冒頭に「画師雪舟は豊府の西北の地に一小楼を作って、天開図画楼と題した、前には広々とした海があり、後には群峰が連なり左に孤城がそびえる、右には二水が流れる」とある。まさに景勝の地である。ところでこの地は現在のどこに相当するのであろうか。これまで何人もの人たちが考察しているが、大きく分けて次の2か所とする説がある。まず第一は上野の台地とする説(沼田頼輔ほか)いま一つは西大分の丘陵地とする説(工藤覚次ほか)である。現在のところいずれを取るか、確実な史料がないが、前方に海が広がり後方に山が連なる、さらには孤城( 高崎城 か)そびえるとなれば後者の西大分丘陵地とする説が妥当かと思われるが、今後の研究に待つところである。このアトリエで雪舟は多くの絵を描いている。「天開図画楼記」には次のように記している。「中に入ると絵具箱や画筆が雑然と置かれ、大きい幅や小さい幅の画絹や紙に、すでに描き終えたもの未完成のものが充ちている」精力的な作画活動の様子がうかがえよう。このような雪舟のもとに「上は公侯貴族から、下は僧侶 工商の徒まで絵を求めてやって来た」という。画を描くことに疲れると、「 に 凭(よ)って襟を開いて風にあたり、しばらく休息するが、常に画のことを考えていた」という状態であった。時に雪舟57歳。
〈 鎮田瀑図(ちんだのばくず)〉
 雪舟が豊後で描いた絵として確認されているのは「 鎮田瀑図 」ただ1点だけである。しかし原図は関東大震災で焼失し、わずかに同図のコロタイプ版と 狩野常信(かのうつねのぶ) (1613−1713 江戸中期の狩野派の絵師)の模本が残っているにすぎない。沈堕滝を描いたこの図は、実際に現地を訪れて描いた真景画である。画面左半分には水量豊かに落下し、 涌溢(よういつ)する滝壷の雄(男)滝を描き、右端に実際には雄滝とやや離れた所に位置する雌(女)を描いている。両滝の間には折り重なる奇岩を描き、ほぼ中央に「豊後州鎮田瀑雪舟写之」の 款記(かんき)がある。県内各地には雪舟が設計したあるいは作庭を指導したと伝えられる庭園が何か所かある。その大半は下毛郡から日田郡一帯に分布している。雪舟が関与したという確証は無いが、文明8年後いくばくもなく天開図画楼をあとにした漂泊の画僧雪舟に似つかわしい伝承ともいえよう。雪舟門下の1人に等恕という人物がいる。「豊後の人」とあるだけでくわしいことは不明である。豊後時代の雪舟に私淑した人であろうか。
 参考文献 松下隆章『雪舟』(『日本の美術』100)
[小泊 立矢]

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