製糸業 ( せいしぎょう)

生糸と絹織物

 蚕の繭から生糸を作る産業。明治期の製糸業は「 蚕業原社(さんぎょうげんしゃ) 」の項に譲り、大正期以降についてみる。蚕糸業は、 第一次世界大戦 の開戦直後、繭価 糸価の暴落で大打撃をうけ、大正4年(1915)3月、政府は帝国蚕糸鰍設立して救済にあたった。けれども、4年の中ごろからは、輸出が急増したため、一転して糸価が暴騰、活気を取り戻した。本県でも、3年の生産高は、機器糸1万6,633貫(1貫は3.75s)。座繰糸4,378貫、計2万1,011貫であったのが、5年には機器3万3,316貫、座繰糸3,897貫、計3万7,213貫となり、機器製糸は倍増している。輸出の急増は、製糸業の近代化と規模拡大を促した。
〈大手製糸業者の県内進出〉
 県内にも原料の繭を求めて、大規模製糸家の 片倉組 と 大和組 が大分市に進出した。両組とも本店を長野県川岸村(諏訪市)におく。片倉組は2年1月、北 馬城(まき)村(宇佐市)の馬城製糸所を買収、ついで5年、大分市大道町に300釜の大分製糸所を建設した。9年には955釜、職工1,100名まで拡大している。この年 片倉紡績 と改称する。大和組は大分市上野町に360釜の 豊後製糸所 を建設、6年から操業した。両組の進出に対して、県内の工場は規模の拡大で対応した。大戦後は、製糸業も反動恐慌に陥り。つづく金融、 世界恐慌 で混迷の度を強めた。操業短縮や生糸の共同保管で糸価の回復をはかったが、市況は低迷をつづけた。中小工場のなかには、合同して体質強化をはかったものもあるが、多くは休業や吸収合併に追いこまれた。県内では、 鶴崎製糸 など3社が合同して 豊国製糸 鰍、生糸の共同販売組織である 南豊館 に属する 日出(ひじ)製糸 など4社が 南豊製糸 鰍設立している。しかし、南豊製糸も長くはつづかなかった。また、 大和組豊後製糸所 は片倉紡績大分工場に並ぶ工場であったが、昭和2年(1927)、 山十組 に合併される。その山十組も5年には工場を閉鎖した。 郡是(ぐんぜ)製糸 が台頭、片倉 郡是の二大製糸時代に入る。かわって郡是製糸は、大正8年(1919)臼杵町(臼杵市)に 乾繭(かんけん)室を設け、繭を集荷していたが、昭和7年工場を建設した。
〈器械製糸から機械製糸へ〉
 昭和初期は、器械製糸から機械製糸へ転換した時期でもある。 御法川(ごぼうがわ)式多条繰糸機の開発で、工場規模が一層拡大され、中小業者は次第に 淘汰(とうた)される。県内最大の 豊中製糸 も経営難から 神栄(しんえい)生糸に合併された。 太平洋戦争 が始まると、 蚕糸業 の統制が一段と強化される。片倉紡績大分工場 神栄生糸は 軍需工場 に転用され、他の工場もほとんどが転廃業された。戦後、政府は外貨獲得のため蚕糸業の復興をはかった。朝鮮動乱後は内需の激増もあって、一次的な活況をみたが、化学繊維の登場で32年以降衰退に向かった。県内では、神栄製糸中津 高田の2工場、片倉工業宇佐工場、郡是製糸臼杵工場が復興したが、いずれも33年までに廃業される。この時、神栄中津は 大分製糸 に改組されたが、41年再び神栄の経営となり、56年に休業した。
 戦時中、養蚕業は、桑園が食料増産の要請で普通畑に転換され、働き手が徴兵されるなどで振るわなかった。戦後は、徐々に復活に向かい、産繭量も増加しつつあったが、県内工場の需要を 充(みた)すまでには至らなかった。県は、36年、農林省桑園施設設置事業の補助を受けて、挾間町 茅(かや)場開拓に2町歩の集団桑園を造成するなど、振興策をとったが、戦前の水準に回復することはなかった。
〈絹織物と国華校〉
 絹織物の普及は、明治8年(1875)、 駅館(やっかん)村(宇佐市)の 辛島祥平(からしましょうへい) が、 辛島国華 を開いたのに始まる。辛島は日向(宮崎県)から職工を招き、織物の伝習を始めた。ついで、京都西陣、筑前博多の職工を招くなど、積極的であった。18年、工場を大分町(大分市)に移す。別府 竹田にも国華校を開き、製織と職工の養成にあたった。製品は 羽二重 斜子(ななこ) 絽(ろ) 袴地(はかまじ) 帯地(おびじ)などである。33年の職工10人以上の工場は、 第二 国華校(こっかこう) (豊後高田市) 卒英校 (日出町) 辛島国華校 (別府市) 生山絹織物所 辛島織工場 (大分市) 松田国校舎 (臼杵市) 井上織物工場 中津織物株式会社 (中津市)。生産額は糸織類 羽二重類 斜子類 袴地 帯地など9,988反と4,187本、11万1,712円であった。絹織物の生産は、このころをピークに減少する。京都など主要機業地に力織機をもつ近代的織物工場があらわれ、手織り機業は対抗できなくなったのである。本県の 力織機(りきしょっき)導入は30年代も終わりで、しかも小規模なものであった。昭和前期、つづく戦争のなかで、人絹 スフ工業が成長した。昭和9年(1934)、大分市に 日本人造羊毛 鰍ェ進出、11年から人絹 スフの生産を始めた。大分市と商工会議所が、誘致をはかったもの。製法はヴィスコース式、製品は京都府、福井 愛知県などの機業地へ販売した。戦後はナイロン ビニロンなど、化学繊維が普及したが、絹の良さは、いぜん根強い需要をもつ。
 参考文献 大分県養蚕販売農業共同組合連合会『大分県蚕糸業史』 大分県農業振興協議会『大分県養蚕史』
[河野 昭夫]

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