西南戦争 ( せいなんせんそう)

薩軍、豊後制圧に失敗

〈士族の反乱と県内士族の動向〉
 明治6年(1873)の「征韓論」の分裂から、西南戦争にいたる士族の反政府行動には、朝鮮出兵の断行と士族の特権擁護を主張することで、政府高官に対する没落士族層の憤まんが根底にあった。そのような中で県内士族の動向と民衆のかかわりあい、さらに近隣で起こる反乱に対する県の対応が、中央集権体制確立期の地方政治の中で注目される。7年2月の 佐賀の乱 に際して、大分県は2月19日に「佐賀賊徒取り締まり」を布達して、関係者が 徘徊(はいかい)潜伏した場合の取り締まりを厳重に行うようにとの大久保利通の通達を伝達している。18日の佐賀城攻防の際、 鎮台(ちんだい)兵側にも多くの戦死 負傷者が出ているが、本県関係者にも14名の戦死者がおり、8年10月に 招魂(しょうこん)社 (現 大分県護国神社 )に 祠(まつ)られた。9年10月の 熊本 神風連(じんぷうれん)( 敬神(けいしん)党)の乱 では、直入郡久住村 恵良原村(荻町) 日田郡西大山村など県境へ巡査を派遣し、警備させている。この事件に呼応して福岡県旧秋月藩士族が挙兵するが、福岡県の要請もあり、中津 日田方面の探索と警備に当たった(「 大分県史料 」18 21)。
〈西南戦争の 勃発(ぼっぱつ)〉
 明治10年2月22日、西郷隆盛ら薩軍13,000、それに熊本隊 協同隊などの士族も加わり、熊本城総攻撃を開始した。迎えうつ鎮台兵は司令長官陸軍少将谷 干城(かんじょう)ら約2,600と警視隊約600で、4月15日まで約50日間にわたり、 田原坂(たばるざか)の激戦を含めて攻防が繰り返される。大分県では、2月15日佐伯署 千束(せんぞく)分署(宇目町)を県境に近い 重岡(しげおか)に移転、巡査3名を増員して日向方面からの薩軍の侵入に備え、3月1日には 藤丸宗造 10等警部が重岡分署長として赴任した。彼はその後薩軍の延岡侵入の際に、その報告と出兵要請に 熊本鎮台 へ出張し、帰路捕えられて5月23日、竹田町で処刑された。
 隆盛らに対して、2月19日征討が命ぜられ、さらに逆徒の逃走 潜伏 出入船舶の厳重な取り締まりが指示された。大分県では、20日に 香川真一 権令(ごんれい)より薩軍への加担を厳しく警告する告示が出され、25日には警備士族が募られ庁下の警らに当たった(「大分県史料」21)。3月1日には警視隊500名が到着した。彼等は熊本県内の動きに応じて久住方面から阿蘇方面へ出隊して警備に当たった。また津江方面へは、 豆田警察署 (日田市)から巡査が派遣され、県境の警戒に当たった(「太政類典」鹿児島征討始末 「県治概略」)。
〈中津隊と県北四郡一揆〉
 3月31日、中津士族 増田宋太郎 ら60名が挙兵した。大分県 中津支庁 を襲撃放火し、支庁長 馬淵清純 らを殺し、4月2日には 大分県庁 に迫って発砲し、監獄署に放火した。香川権令らは県吏などと県庁にこもって応戦した。勢家町 沖ノ浜 船頭町など4〜500軒が焼失するなど混乱したが、結局県庁を陥れることができずに別府に退き、3日には別府湾に 軍鑑浅間 が入港するなどで、彼等は由布院を経て 小国(おぐに)(熊本県)を通って、5日に阿蘇外輪の 二重峠(ふたえのとうげ)(大津町)で薩軍に出会い、やがて「中津隊」として野村忍介の指揮下に入れられる。増田らの 蜂起(ほうき)と関連して4月1日宇佐郡 敷田(しきだ)村 (宇佐市)ではじまった一揆が、宇佐 下毛郡から国東 速見郡にかけて広がり、約2万人が参加する。「各小区用務所学校吏員及ビ富豪農商ノ居宅ヲ放火シ、或ハ破毀ス、 焼毀(しょうき)ヲ以テ脅迫ノ具トナシ、異口同音他衆ヲ扇動ス、故ニ所在ノ民衆起テ皆コレニ応ズ、幾万人ノ多キニ至ル云々」とあるように極めて深刻な事態であった。県はまず中津士族をおさえ、これが県外に出ると一揆鎮圧に全力を向けて5日から6日にかけて鎮静した(「太政類典」鹿児島征討始末)。
〈薩軍の県内への侵入〉
 熊本城の包囲を解いて撤退をはじめた薩軍の中で、野村忍介の指揮する奇兵隊は椎葉 延岡へと転進し、先発隊が5月12日に重岡へ侵入、13日には竹田町を占領した。ここに1,800余の薩軍が集結、以後大分 鶴崎方面へと出動する。一方竹田士族 堀田政一 ら 報国隊 600名の薩軍参加もあり、竹田をめぐる激しい攻防は5月29日の官軍総攻撃で、1,500戸焼失という戦闘の末ようやく薩軍を敗退させた。しかし彼等は 小野市(おのいち) 三重へと移動し、さらに6月1日には臼杵に侵入、警視隊や臼杵士族で編成された約800名の臼杵隊が防衛のため戦った。海上からは 軍鑑日進 浅間の砲撃も加わり、ようやく10日に津久見方面へ敗走させた。また佐伯は5月25日 31日 6月6日と3度襲撃され、一般住民にも犠牲者が出た。その後三国峠などの争奪戦を経て、次第に追われるが、8月中旬までは宋太郎峠などでの山岳戦が続いた。その間5月29日に香川権令は、賊徒が管内に乱入、竹田を拠点に四方に進出、庶民は塗炭の苦しみをしているとして派兵を上申している。なお、西南戦争は9月24日城山の陥落で終わった(「太政類典」鹿児島征討始末)。
[吉田 豊治]

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