勢場ヶ原の合戦 ( せいばがはるのかっせん)

大内軍との一大攻防戦

 速見郡山香町大字山浦。 大村山 ( 大牟礼山 )は標高419mのなだらかな山容をなし、その西側に広大な勢場が原の原野や広がっている。天文3年(1534)4月6日この一帯で 熾烈(しれつ)な合戦が展開されたのである。
〈合戦前の両豊の情勢〉
 享禄元年(1528)大友 大内両氏の講和が 破綻(はたん)、 大友 義鑑(よしあき) は豊前国への出陣準備を着々と進めた。天文元年(1532)彼は宇佐郡の最有力者 佐田 朝泰(ともやす) に密書を送り、味方に誘った。佐田氏はこの誘いに乗らず、逆にこの密書を 大内氏 に提出することにより、大内氏への忠義を示した。8月、大内氏勢は 妙見岳(みょうけんだけ)城 (院内町)に集結、この中に 玖珠郡衆 の一人 恵良氏 も駆けつけていた。大友軍は豊前に進出し、10月から11月にかけて、この城をめぐる攻防戦が展開された。同2年大友軍が 宇佐宮 の末社等を破却、一方、大内軍は速見郡の 鹿鳴越(かなごえ) ( 日出(ひじ)町)に進攻している。11月になると、国東の海上に大内軍が姿を見せたが、国東方面の 浦部衆 が撃退した。同3年2月大友軍は、佐田朝景の居城(安心院町)を急襲した。史料によると、天文3年4月6日、豊前 豊後の境界を接点として、大友 大内両軍による激戦が展開された。これが世に著名な勢場ヶ原の合戦(大村山 =大牟礼山合戦 )である。
〈 編纂(へんさん)物に見える合戦の原因〉
豊後国速見郡 山香郷 (山香町)に侵入してきた大内軍3,400余騎と、これを迎え撃つ大友軍2,800余騎が衝突した。合戦に至る経過や様子などは、「大村陣勢場合戦記」や「 勝山歴代豊城世譜(しょうざんれきだいほうじょうせふ) 」などで知ることができる。これらは後世の編纂物で、どこまでが史実であるかは疑問である。大友義鑑と 大内 義隆(よしたか) との抗争の根本原因について、義隆の譜代の家臣藤井三大夫という者が、不忠者として 讒言(ざんげん)された。三大夫はある者から死罪に処せられるであろうと忠告され、大友氏を頼って豊後の 府内 へ身を寄せた。大内方は使者を派遣し、その身柄の返還を要求したが、義鑑は保護を求め頼って来た者を返すのは本意ではないとして拒否した。義隆は再度使者を派遣して返還を求めたが、義鑑は使者を 斬殺(ざんさつ)した。義隆は激怒し、豊後進攻を決意したという。大友 大内両氏はこれ以前から抗戦中であり、この原因は編纂物に特有な推測である。
〈編纂物による合戦の 全貌(ぜんぼう)〉
義隆は大将の 陶美作守晴賢(すえみまさかのかみはるかた) 杉長門守 を先駆けとして、3月26日に防州山口を出発させた。長州下関から渡海し、豊前中津郡に到着。この情報は直ちに豊後府内に報告され、義鑑は押えの大将に 吉弘 石見守氏直(いわみのかみうじなお) 寒田(そうだ)三河守 親将(ちかまさ) に命じ、 志手泰(しでやの)万 都甲惟秀(とごうこれひで) 広瀬法致 帯刀(たてわき)右京亮 中山弾正忠 、後攻として 田原 親宏(ちかひろ) 木付親実(きつきちかざね) で、大村山(標高418m)の頂上に集結した。これとは別に 大神鎮氏(おおがしげうじ) 林 鎮治(しげはる) は300余の軍勢を率いて 鹿鳴越 砦(とりで) に分置した。大友方では敵が 地蔵峠 か 立石峠 の方向から攻めてくるものと判断し、軍勢を三隊に分けて布陣した。本陣は大村山の山頂に置き、1,000人が詰めた。残りの地蔵峠と立石峠に分けて置き対処した。大内勢は宇佐郡の糸口原に陣を敷き、間者をはなって大友軍の動向を探らせ、宇佐郡の佐田氏などの意見を入れて、佐田越えをして大友軍の本陣を背後から奇襲する作戦を採った。4月6日、大内軍は極秘の内に夜行軍で 佐田峠 を通り勢場ヶ原に野陣し、大村山の本陣を目指して襲撃した。大友本陣での軍議において、 広瀬美濃守 裕則(ひろのり) は両峠の軍勢が引き返してくるまで待つべきだという慎重論を、大将吉弘氏直に建言した。しかし、氏直は敵軍は疲労しており、小勢でも勝利を得ることができると考え、何よりも敵の寄せるのを見ているのは 卑怯(ひきょう)であると主張した。氏直は血気にはやり山を馳せ下り敵軍めがけて突進し、これに大友軍が続いた。大内軍は鶴翼の陣に構え、前後左右から少数の大友軍を攻め、壮絶な死闘が展開された。陣頭指揮をとった氏直は、矢が馬に当たり転落し徒歩で戦ったが、矢 疵(きず)を受けて倒れた。寒田親将 広瀬美濃守は氏直を助けようとしたが、共に討ち死にした。この緒戦で、大友軍は大将をはじめ、多数の武士が戦死した。大内勢はこの勝利に酔いしれていたところ、地蔵峠の 志手 泰久(やすひさ) 野原 昌久(まさひさ) 、立石峠の 田北鑑生(たぎたあきなり) 木付親実 長野 都甲などが、本陣敗北の知らせを聞いて勢場ヶ原に駆け付け、弔い合戦とばかりに大内軍に果敢に挑んだ。勝利に酔いしれ油断していた大内軍は、緒戦の疲労も加わって、西北を目指して敗走し始めた。中国勢は大将の杉長門守をはじめ、350人が討たれた。 陶 隆房(たかふさ) は負傷し、全軍の統制がとれず支離滅裂となり、佐田付近に集結し国東郡臼野浦に出て大友軍と戦いながら、豊後高田に退却して中国に向けて退去したといわれている。結果的には、この合戦は引き分けに終わったことになる。現在、大村山の頂上には吉弘氏直 寒田親将などの供養碑があり、また山麓にある数十基の板碑は大内方の供養塔である。
 参考文献 『山香町誌』
[乙・ 政巳]

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