井上準之助 ( いのうえじゅんのすけ)

凶弾に倒れた悲運の蔵相

 1869−1932 大正 昭和時代の財政家、明治2年3月25日日田郡大鶴村字 大肥(おおひ)に生まれる。父井上清、母ヒナ。井上準之助は昭和初期の民政党浜口 雄幸(おさち)内閣の蔵相として、強力な財政緊縮と 金解禁 政策を推進して非難を浴び、右翼秘密結社血盟団員に暗殺された郷土出身の財政家である。
〈日本銀行に入社〉
 彼は明治2年大鶴村(日田市大字大鶴)の酒造家 井上清 氏(大分県第8区第3小区長)の5男2女の末子として生まれた。7歳の時叔父井上簡一氏の養子となり迫小学校卒業後一時郡立共英中学校に在籍したが病を得て久留米で休養、後全快して明治18年(1885)上京した。明治20年仙台第二高等中学校に入学、土井 晩翠(ばんすい)、高山 樗牛(ちぎゅう)らと机を並べて学に励み、最優秀の成績で卒業しさらに東京大学法科に進んだ。明治26年ここを成績2番で卒業後日本銀行に入社し、エリートとして社会生活に第一歩を踏みだした。その後30年から33年にかけて英国に留学してロンドン銀行に勤務し41年から44年の間は日銀ニューヨーク代理店監査役として在米し、当時成熟途上にあった先進資本主義国について見聞を広めた。米国から帰朝した井上は横浜正金銀行に入社した。時あたかも 第一次世界大戦 が 勃発(ぼっぱつ)し、大隈内閣は大正4年(1915)対華21か条要求を中国政府につきつけ在中日本権益の拡大を図った。正金銀行は貿易金融を専業とする特殊銀行で、井上は頭取として対中進出を金融面から積極的に支援した。
〈日銀総裁に就任〉
 大正8年井上は初めて 日銀総裁 に就任し、9年の戦後恐慌の事後処理にあたり、12年の関東大震災の翌日9月2日には、震災内閣第2次山本権兵衛内閣の蔵相に就任して経済復興に手腕を振い、政界への第一歩を踏みだした。井上の人となりについては、当時彼と接した人たちがいろんな感慨を述べているが、結城豊太郎は「井上準之助伝」の序文に次のように記している。「全体として纏まっておれば、局部局部の不出来なことは多く問わなかったこと。物事の処理 始末をつけるのがうまかったこと。非常に熱があったけれども 亦頗(またすこぶ)る平淡で常に平静を失なわなかったこと」。このほかの人たちの評価もこれに近いが、共通する所は頭脳 明晰(めいせき)、優れた決断力、実行力に富んでいるということであった。大震災時に日銀で卒先消防隊を率いて舎内に入り金庫焼失を防いだことや、蔵相就任挨拶を終わるや否やその席上で日本初の モラトリアム (支払猶予)の施行を提案し、羅災銀行での混乱防止の措置をとったことなどはその例である。12年から昭和2年5月まで彼は閑職であるが、この間14年には 貴族院議員 に勅任されている。昭和2年3月 金融恐慌 が起こり経済界はまたまた大混乱に陥ったが、憲政会 若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣に代わった政友会田中 義一(ぎいち)内閣は、3週間のモラトリアムを発してこれを収拾した。井上はこの田中内閣の恐慌事後処理のために、蔵相高橋 是清(これきよ)の要請によって再度日銀総裁に就任し、休業銀行の整理、弱少銀行の統合などの事後処理を終えて翌年6月に辞任している。以上のような井上の経歴の中でことに目を引くのは、日本経済の浮沈にかかわる重大事件には必ず重責を担って登場し問題を解決していることである。このことは彼が経済的危機状況にうってつけの人材として高く評価されていたことを立証している。
〈大蔵大臣に就任〉
 民政党浜口雄幸内閣が成立したのは昭和4年7月のことであるが、この時期日本は外交内政共に困難に直面していた。山東出兵や 張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件に見られる中国外交の行きづまり、慢性的不況、社会運動の高揚、政治の腐敗そしてこれらの状況を背景として国家革新を説く軍部右翼の台頭など事態は容易ならぬものがあった。4年7月井上は浜口のたっての要請により蔵相に就任し経済改革を手がけることになる。政党政治下において党外から閣僚を登用することは当時異例とされたが、浜口があえて井上を登用したのは、彼の胸中に井上を措いて内閣の断行しようとする金解禁政策を推進しうる人物はいないとの確信があったからであろう。内閣は日本経済再建のため金解禁、財政緊縮、産業合理化の三大政策を強力に推進した。しかし昭和4年米国ウォール街に始まった大 恐慌 は日本の対外輸出を激減させ、逆に5年実施を見た金輸出解禁により、正貨(金)が大量に海外に流出した。恐慌は5年から6年にかけて日本に波及し、農産物価格の暴落、企業の休業倒産、失業者の激増で日本経済は未曾有の難局に直面した。金解禁政策はここに失敗に終わり、加えて浜口首相はロンドン軍縮条約調印に反発する右翼の凶弾に傷つき倒れた。つづく若槻礼次郎内閣で井上は引き続き蔵相を担当したが、6年 満州事変 が始まり、また英国が金輸出再禁止にふみ切るなどしたため井上は窮地に立ち、内閣も交代して政友会 犬養毅(いぬかいつよし)内閣が成立した。7年彼は 民政党 総務として選挙委員長に推され運動中、東京本郷駒込小学校の演説会場の入口で右翼秘密結社血盟団員の凶弾に倒れ波乱の生涯を終えた。
[三重野 勝人]

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