石造アーチ橋 ( せきぞうあーちばし)
近代化へ男のロマンをかける
石造アーチ橋( アーチ石橋 、 めがね橋 、 車橋 )は九州の特色ある土木文化である。全国のアーチ石橋の95%近くが九州 沖縄に集中している。その中でわが大分県は、ただし熊本県と全国1〜2位を争うくらい数が多い。熊本県の場合は、19世紀(江戸末期〜明治前半期)が大半であるが、大分県の場合は、下表に見るように20世紀(明治後半期〜大正〜昭和初期)が約90%である。特に大正期には約200(推定を含む)ものアーチ石橋をかけ、全国に誇るべき“おおいたの石橋文化”を見せてくれる。
〈石橋の近代化〉
近世の大分は 小藩分立 のため各藩の財力が弱体であった。このことが各藩すぐれた 石工 の技術をもっていたにもかかわらず、熊本や鹿児島のように多くの石橋をかけることのなかった一因である。明治に入ってからも、東京や熊本などで、 文明開化 の一環として石橋をかけるようになっても、県内ではその気運は起こらなかった。
大分県で盛んに石橋をかけるようになったのは、欧米風の石橋が地方に波及した明治後半期からである。明治28年(1895)の 阿南(あなん)橋 (庄内町)、同30年の 赤松橋 (日出町)、同32年の 大肥(おおひ)橋 など数基の石橋が新しい欧米風のアーチ石橋として完工した。これらの工事の成果が、20世紀に入ってからの石橋建造ブームへの先導的役割を果たすのである。
〈古い石橋、新しい石橋〉
一般に政治史上の「近代」は明治初年からだが、石橋建造史上の「近代」は明治27〜28年ころからである。明治25〜26年ころまでのアーチ石橋は、九州で育った石工の伝統的な技術で造られていた。これが近世のいわゆる“古いアーチ石橋”である。この古い石橋の技術に欧米風の技法が加わったのが“新しいアーチ石橋”である。欧米の土木技術は、明治新政府のお雇い外国人によって初めてもたらされたが、やがて留学先から帰国した日本人土木技師に受けつがれ、これが明治20年代に各県の土木技師に伝達されたのである。
ところで、古い石橋と新しい石橋の工法上の違いはどこにあるか。第一は前者が石と石の間にモルタル等の接着剤を使わない、いわゆる 空(から)積みであるのに対し、後者は石と石の継ぎ目(目地)にモルタル コンクリートを挿入する 練(ねり)積みであること。第二に壁石が、前者がいわゆる 乱(らん)積み(雑多な形状の石を透き間なく積み合わせる)なのに対し、後者は 布(ねの)積み( 煉瓦(れんが)のように長方形の石を整然と積み重ねる)であることなどが主たる差違である。
〈赤松橋―明治を代表する石橋〉
近世以来の 豊前街道 ( 小倉街道 )が国道35号線として改修工事が進められ、藤原村( 日出(ひじ)町内)の 八坂川 にかけられたのが「赤松橋」である。工事請負人は 都留茂一 、石工棟梁は 安部福太郎 ほか。明治29年9月起工したが、その冬は異常寒気のためセメントが時間内に固着せず、無用だとして数十樽のセメントを河中に投棄した。セメントの使用に不馴れだったのだ。春になり工事を再開したら、今度は長雨による出水のため地下橋( 支保工(しほこう))が崩壊する難事に見舞われ、完工が遅れたため茂一は多額の違約金を納めたという(『大分県社寺名勝図録』)。新しい石橋建造初期のころの苦労の一端を物語っている。その後いく度かの 洪水 にもびくともせず、堅牢性からも造形美としても見事で、明治を代表するに足る建造物。将来県の有形文化財に指定する価値がある。
〈鳥居橋―大正を代表する石橋〉
大正期の本県の石橋の特色は、多連長橋(アーチの数が多く長い橋)が多いことである。全国の石橋の長さベスト5は全部大分県内に在る。中でも大正12年(1923)完成の 耶馬渓(やばけい)橋 (本耶馬渓町、県指定有形文化財)は日本で唯一の8連しかも100m以上の橋長はこれだけである。
写真の 鳥居橋 (院内町)は大正5年完成、橋長55m、5連アーチの石橋で、橋長順は全国15位、本県10位だが、橋脚が細身に造られ均斉のとれた構造美は抜群である。石工は 松田新之助 、設計は県の技師の指導を受けた 都留精一郎 といわれる。柱の高い正半円形の天井を「ローマンアーチ」というが、この橋はまさにローマンアーチである。他県では、大正には鉄筋コンクリートを主とし石橋は架けなくなるが、わが大分県は、逆に大正に多くの石橋を架けた。これには経済的理由もあるが、当時“石のアーチ”を懸けることに情熱を燃やした県の技師や石工たちの男のロマンを感ぜざるを得ないのである。
参考文献 赤嶺英一『大分の石橋』 山口祐造『石橋物語』 太田静六 『九州のかたち眼鏡橋…』
[田村 卓夫]
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