石造美術 ( せきぞうびじゅつ)

石の信仰と造形美

 石造美術を、わが国で最初に体系づけをし、調査研究を進めたのは川勝政太郎である。川勝は石造美術の研究分野を、仏教伝来以後江戸時代に及ぶ各時代に、わが祖先が作り 遺(のこ)した主として仏教関係の石造物を対象とするとしている。その上にたって次のように石造美術の分類を行っている。1. 層塔(そうとう) 2. 宝塔(ほうとう) 3. 多宝塔(たほうとう) 4. 五輪塔(ごりんとう) 5. 宝篋印塔(ほうきょういんとう) 6. 一重塔(いちじゅうとう) 7. 笠塔婆(かさとうば) 8. 自然 石塔婆(せきとうば) 9. 角塔婆(かくとうば) 10. 板碑(いたび) 11. 無縫塔(むほうとう) 12. 石幢(せきどう) 13. 石仏(せきぶつ) 14. 石室(せきしつ) 15. 石橋(いしばし) 16. 石燈篭(いしどうろう) 17. 炉(ろ) 18. 水船 19. 石鳥居(  とりい) 20. 狛犬(こまいぬ) 21. 石碑(せきひ) 22. 石臼(いしうす) 23. 露盤(ろばん) 24. 台座(だいざ) 25. 石壇() (『日本石造美術辞典』)。しかしこの分類が各地方によって適宜異なるのはもちろんのことである。例えば13.石仏であるが、大分県は全国有数の磨崖仏分布地である。石仏として一括するのではなく、 磨崖仏(まがいぶつ) という項を設定すべきであろう。2.宝塔の場合の 国東塔(くにさきとう) についても同様のことがいえる。また22.石臼などは石造美術というよりも、むしろ民俗資料として扱う場合が多い。川勝の分類をもとに大分県での石造美術の分類を確立したいものである。これまで大分県の石造美術の研究は、どちらかといえば金石文が中心で、古くは 後藤 碩田(せきでん) 『 大化帖(たいかちょう) 』や 日名子(ひなご)太郎 『 大分県 金石(きんせき)年表 』などがある。個別の石造美術研究では、浜田耕作『豊後磨崖石仏の研究』や入江英親『国東塔の分布と特色』などがあげられよう。全県的な石造美術をまとめたものとしては、概説を主とした望月友善『大分の石造美術』がある程度で本格的な研究書は今後に期待するところである。
〈造立の趣旨〉
 石造美術が主に仏教関係の石造物であることからみると、造立の背景に信仰的要素が強いのは当然である。その一つが石の堅固さに永久不変の絶対性を考え、現世安穏後生善処を願うものである。国東塔への経典納入などはその一例である。人々がなぜ石造美術を造立したかについては、銘文を読むことによって判断できる。しかし同じ種類の石造美術でも、時代によって造立の趣旨は異なり造立する人々の階層も異なってくる。その時代の動きが大きく影響するのである。地蔵信仰の所産である石幢を例にとってみると、 龕(がん)部に彫る地蔵 菩薩(ぼさつ) 十王像と幢身に彫る銘文から、人々の信仰は現世利益の追求というより、来世信仰すなわち極楽往生の願いが強くなることがはっきりする。また 結衆(けっしゅう)の人々も時代とともに、武士あるいは僧侶と思われる人に混じって農民層の人名も増えていく。1基の石幢に刻される人数も多くなり地蔵信仰の広まりを石造美術の上からおさえることができるのである。江戸時代になると、爆発的といってもいいほど民間信仰関係の石造美術が出現する。石に対する信仰の根強さを物語るものといってよかろう。
〈県内の主な石造美術〉
 大分県は、全国的に見ても石造美術の豊富な地域であるといわれている。県内の国指定重要文化財を見ても、58件中石造美術関係は14件である。これは仏像彫刻の19件に次ぐ多さである。その代表的なものとしては、まず14件中6件と約半数を占める宝塔をあげることができよう。国東半島を中心に分布する宝塔の一地方型、と見なされるところから国東塔と名付けられたもので、大分県を代表する石造美術でもある。国東町大字岩戸寺の 岩戸寺国東塔 が弘安6年(1283)で在銘最古。次に、紀年銘を持つ五輪塔ではわが国2、3番の古さをほこる塔をあげることができる。臼杵磨崖仏群のホキ石仏群の上に立っている嘉応2年(1170)銘と承安2年(1172)銘の 一石(いっせき)五輪塔 である。全体に風格のある塔で、各輪四方に彫る薬研彫の梵字にも古風が感じられる。文永4年(1267)の銘のある野津町大字王子の 九重塔(きゅうじゅうのとう) は、安定感もあり全体によく整った塔で大分県の第一級の石塔婆とさえいわれている。 臼杵磨崖仏 をはじめ、宇佐 国東半島、県中 大野川流域に分布する磨崖石仏群も、大分県のみならずわが国を代表する貴重な文化財といえよう。
〈石工〉
 石造美術の作者は、銘文に大工 石工 作者 石匠などと記されている。永仁4年(1296)の三重町 蓮城寺(れんじょうじ)宝塔 のように「大仏師」と記すこともあるが、これは仏教関係のものを作った作者(仏師)という意味である。銘文に作者名を残すのは、全国的にみて鎌倉〜南北朝時代のものに多いが、大分県では大野川流域を中心に室町時代の遺品にも作者名が見られ、鎌倉時代末から室町時代末までに31名の石工を数えることができる。中でも南北朝時代に活躍した 玄正(げんしょう) は、宝篋印塔の技法に特徴があり、彼の技法は室町時代以降も継承されている。分布地域も広く、中世石工集団の存在をうかがわせる。石造美術の豊富な国東半島は、中世の石工名はほとんど確認されていないが、近世以降はすぐれた技術を持つ石工集団が組織されている。
 参考文献 川勝政太郎『新版石造美術』
[小泊 立矢]

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