セメント ( せめんと)
石灰とセメント
石灰石 と粘土をくだいて熱したもの。砂 じゃりを加えて水でねり、土木 建築工事などに使う。わが国のセメント製造は明治8年(1875)、工部省が 摂綿篤(せめんと)工場を設けたのに始まる。
〈あいつぐセメント会社の設立〉
県下にセメント会社が設立されたのは 第一次世界大戦 中からである。大正6年(1917)10月、下浦村(津久見市)に 桜セメント 葛繽B工場が、ついで8年11月、青江村(津久見市)に大分セメント鰍ェ操業を始めた。 津久見 に工場が立地したのは、原料(石灰石)が豊富なこと、港湾に恵まれ海上輸送に便、 佐伯線 ( 日豊線 )の開通で輸送力が増大したことによるが、 大戦景気 に伴う需要増が拍車をかけた。
桜セメントは明治40年の創立、本社を大阪市におく。大正の初め下浦村の 徳浦石灰製造所 を買収して工場を建設、回転 窯(がま)1基で生産を始めた。9年に回転窯を増設したが、大戦後の不況で経営が悪化、昭和2年(1927)大分セメントに合併され、その徳浦工場と改称された。
大分セメントは大正7年、本県財界人の発起で設立、本社を大分市においた。初めは回転窯1基、石灰石を 水晶山 (高登山)から採り、粘土は柿の浦(臼杵町)から運んだ。9年工場を拡張、 旭セメント 大船渡 桜セメントなどをつぎつぎに合併したが、経営悪化のため昭和5年10月 小野田セメント 鰍フ系列下に入った。
大正15年4月には旧 日本セメント 轄イ伯工場も操業を始めた。回転窯2基、石灰石を 最勝海浦(にいなめうら) 、粘土を 大入島(おおにゅうじま) に求めた。昭和3年 浅野セメント と業務提携、販売も同社へ委託した。ついで昭和4年、 大平セメント 鰍ェ津久見町に誘致された。株式の払い込みと石灰山 漁業権の買収が遅れ、9年5月、小野田セメントの援助をうけて操業に入った。
〈セメント会社の合併〉
セメント業界は第一次世界大戦後の不況と工場乱立のため大正13年から生産制限を続けていたが、昭和9年末小野田 大分 電化セメント の三社を除く業者がカルテルを結成、重要産業統制法の適用をうけ、減産体制に入った。このためセメント会社の合併が進む。13年8月、大分セメント津久見 徳浦工場と大平セメント徳浦工場が小野田セメントに、14年10月、旧日本セメント佐伯工場が浅野セメントに吸収され、県下のセメント会社は小野田 浅野の二社となった。14年7月、石灰石が割当制に、15年3月、セメントが 配給制 になり、価格が統制された。燃料の石炭や労働力が不足し、減産を余儀なくされた。
〈戦後の活況〉
戦後は経済復興、電源開発、特需などによってセメント業界は活況を呈した。20年後半〜30年代前半、セメントは砂糖 肥料と並んで 三白(さんぱく)景気 とよばれた。浅野セメントは社名を日本セメントに、小野田セメントは工場名を第一 第二工場に改称、ともに生産設備の拡張を進めた。工場の拡張に伴い、石灰石運搬にベルトコンベアーが採用され、製品輸送のため港湾が整備された。
現在、小野田セメントの両工場は同社の主力工場として、ポルトランドセメント 炭酸カルシュウム 高炉セメントなどを生産している。日本セメントは普通セメント 高炉セメントなど。両社とも臨海工場の利を生かし、タンカーで諸外国や国内各地へ大量輸送している。
〈石灰石関連産業〉
本県の石灰石は、 臼杵−八代構造線 以南の 秩父古生層 に 賦存(ふぞん)する。なかでも津久見市から野津町 川登(かわのぼり)に至る地帯と津久見市 四浦(ようら)半島 から宇目町小野市に至る地帯に多い。埋蔵量は無尽蔵とされ、福岡県につぐ第2位の生産量を誇る。石灰石は焼きたてて石灰をつくるが、その起源は江戸時代にある。 漆喰(しっくい)や肥料に用いられた。
明治11年(1878)ころ、下浦村(津久見市)徳浦山近傍10数か所の窯数は45、生産高200万貫で、関西 中国九州内各地へ移出している。40年代になると生産高は次第にふえた。43年は窯数92、従業者692人、2400万貫余りを生産した。主な製造所は 加藤山石灰製造所 、 豊後石灰製造合資会社 、 津久見石灰合資会社 など。大正6年桜セメントが操業すると石灰石の採掘量は増加の一途をたどったが、石灰の生産は減少した。石灰石はセメントのほか、肥料 ガラス カーバイト 苛性(かせい)ソーダなどの原料、鉄 銅の製錬などに用いられる。これらの工業用石灰石の需要が増大したためで、小規模な石灰製造所は次第に 淘汰(とうた)されていった。
石灰石の生産も太平洋戦争中は、セメントの統制により減少したが、戦後は再び盛んになった。セメント 石灰石の増産に伴い、 粉塵(ふんじん)の問題が深刻化したが、収塵装置、ベルトコンベアーのパイプフレーム、大型排水路などの防止策がとられた。採石業者、石灰 セメント関連業者は津久見市に集中している。 戸高鉱業 米庄石灰工業 鰍ネどのように江戸時代からつづくものもある。採石は旧来の壁落とし法に加え、グローリー ホール法が採用されている。高登山(水晶山)は既に姿を消し、 胡麻柄山 も山容が変わりつつある。
参考文献 『津久見市誌』 織田清綱『津久見石灰史』 同『津久見のセメントと石灰物語』
[河野 昭夫]
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