選挙粛正運動 ( せんきょしゅくせいうんどう)
政党否定の運動と先進県大分
明治以降わが国の選挙には、投票買収と官憲の選挙干渉という弊害がつきものであった。 普通選挙法 実施にともない一部に選挙革正の声が高まったが、これを背景にして内務官僚の主導のもとに、昭和10年(1935)以降全国的に選挙粛正運動が展開された。しかしそれは反政党 反立憲政治の方向をたどり、その論理はやがて翼賛選挙に結実した。日本 ファシズム の形成に一つの役割を演じたのであるが、実はそのモデルないし実験が昭和5年以降に展開した大分県の選挙粛正運動であった。
〈運動の発端〉
昭和5年の総選挙では、大分県1区で投票前に大がかりな 選挙違反 (買収)が摘発され、候補者本人が逃亡 雲隠れし、 県会 議長が逮捕される事態となった。またこの選挙では第1回総選挙以来連続当選の 政友会 の 領袖(りょうしゅう) 元田肇(もとだはじめ) が落選した。この事態を受けて開かれた同年3月の 東京県人会 総会で、日本青年館理事松原一彦が選挙粛正運動を起こすことを提案し、大日本青年団理事長 後藤文夫 が賛成演説をしたのが運動の出発点となった。早くも5月に、県人会は知事あて建議書を知事はじめ県下各方面6,240人に送った。当時の大分県 知事 本山文平(もとやまぶんぺい) は後藤文夫の台湾総督府総務長官時代の同府警務局長であった。建議書発送の翌6月初め、後藤は 田沢義舗 と共に県主催青年自治講座の講師として各地をまわり「中央政党政治の影響が自治体に累を及ぼし(中略)自治を 紊(みだれ)る」ことの阻止すなわち政党と地方自治の切りはなしを説いた。照準はすでに選挙そのものとは別の所に向けられていたのである。しかし本山知事がこの夏に転出し、さらに中央で浜口首相遭難と政界の変動があって、提起された運動はその後具体化しなかった。一方で昭和7年の総選挙では、前回の大選挙違反事件をおこして落選した本人が、政党公認の候補として出馬当選し、この間、選挙粛正の動きは全くなかった。政党も自らの手で選挙革正を行う力がなかったのである。しかしこの年の5 15事件で政党内閣時代が終わり、斎藤内閣が出現すると、文官分限令すなわち官吏身分保障令を発し、法制審議会に「党弊除去」の方法を諮問した。新官僚の総帥と目され、農相として入閣していた後藤文夫は、公民教育と選挙管理の機能をもつ選挙委員会の設置を主張して答申に盛りこませることに成功した。しかし内務官僚による政党コントロールを狙うこの構想に、内務政務次官の民政党斎藤隆夫が反対し、内相 山本達雄 も賛成せず、後藤の構想は実現に至らなかった。
〈大分県の独走〉
この斎藤内閣が任命した大分県知事は 田口 易之(やすゆき) で、政党色を全くもたない生粋の内務官僚であった。任命直後の昭和7年7月末、東京県人会は知事歓迎会を開いたが、9月末に県人会代表 伊藤末尾 尼子止 が大分県入りし、10月初め県会議事堂で県人会主催選挙粛正懇談会が開催され、同月末には知事に委嘱された36名の委員によって第1回選挙粛正委員会が開かれた。この急テンポぶりから、後藤文夫らと知事の間で、すでにシナリオは出来ていたと考えられよう。委員中には政 民両党から10名が入ってはいたが、主導権は県庁と県人会側に握られ、昭和8年2月の小委員会で運動の進め方の要領が決定された。市町村長が推薦し知事が任命する委員で市町村選挙粛正委員会を設置するよう、直ちに知事は依頼書を発し、内務 警察 学務各部長も各行政系列へ 通牒(つうちょう)を発した。わずか1週間後に速見郡川崎村に出来たのを初めとして、同年5月末までに県下251市町村中235町村に 選挙粛正委員会 が発足した。さらに多くは、部落 町内会段階にも委員会を作り、警察官同道で全有権者に協定順守を誓約 調印させた。協定事項の 雛(ひな)型は県が作ったが、その中には立候補予定者が事前に所轄警察署長に届出すること等が含まれていた。昭和8年の町村議選から翌年の市議選まで展開されたこの大分県の選挙粛正運動は、買収その他の違反を大きく減らすことは出来なかったが、委員会の事前調整で立候補を定員一杯にしぼって「真の理想選挙」と称したり、選挙演説会やポスターを廃止したり、政党に属さない中立候補 当選者が著増したりという現象を生み出した。昭和9年の県会では、 山口 馬城次(まきじ) 川野直吉 小野豊 らの議員が、選挙粛正運動は政党否認 立憲政治の否定に至るとして、選挙粛正運動批判を展開した。しかし政党側に選挙の実態を自力で改革する努力が無い以上、批判には迫力がない。田口知事は「嫌デモ応デモ選挙粛正会ニ御付合ヲ願ヒタイ」と高飛車につき放し、後藤文夫は「選挙を権利と考へず選挙する責任、選挙する義務と考へて欲しい」と語って、翼賛選挙への方向を明らかにした。昭和10年、岡田内閣の内務大臣となった後藤は、この大分県の選挙粛正運動をモデルとして『選挙粛正運動綱領』を作り、勅令で選挙粛正委員会令を公布した。以後全国的に選挙粛正運動が展開される。
参考文献 木山正夫『日本選挙啓発史』
[野田 秋生]
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