専想寺 ( せんそうじ)
天然と浄土真宗の広がり
〈浄土真宗の二豊への 伝播(でんぱ)〉
浄土真宗 が二豊へ入ってきたのは、15世紀後半であるといい、現在のところ九州における浄土真宗の起源は、文明年間(1469〜87)に専想寺(大分市)の開基 天然(てんねん)が広めたのがはじめとされている。しかし 方便法身尊像(ほうべんほっしんそんぞう) (絵像)の裏書などからみると、二豊への伝播はいくつかの流れがあったようである。天然は嘉吉2年(1442)に 大内 教弘(のりひろ) の子として生まれている。寛正元年(1460)には出家して天然と称する。文明元年(1469)には京都黒谷金戒光明寺で浄土宗鎮西派を学んでいる。同6年豊前 柳ケ浦 (宇佐市)で教えを説くが、当時の豊前 守護 は 大内 政弘(まさひろ) であるところから、大内氏出の天然が豊前の地に布教の足掛りを求めたということであろう。2年後には豊後に来て専想寺を再興している。同寺は 伝教(でんきょう)大師 創建と伝えられる寺で、当時は衰微していたのである。現在専想寺に伝わる史料の中に、文明2年に天然が書写した 浄土宗 関係の写本数点が残っているので、天然がまず伝えたのは浄土宗ということになる。文明14年(1482)に再度上京した天然は、 蓮如(れんによ)の弟子となって浄土真宗に帰依し、 淨祐 の名を受けている。文明16年には九州伝導の命を受けて専想寺に帰り、ここを根本道場として浄土真宗の布教につとめる。本願寺10世証如上人の日記である『天文日記』には、豊後関係の寺院が2か寺出てくる。1つは 善法寺(ぜんほうじ) (臼杵市)で、いま1つは「豊後国 端坊(はしのぼう)下」と記された寺である。端坊は仏光寺派の経豪が本願寺に帰属して興正寺を形成した時に従った6坊の1つで、後に中国 九州地方の興正寺門徒を統轄している。永正2年(1505)の専想寺の方便法身尊像裏書には「興正寺門徒」とあるので、『天文日記』の端坊下は専想寺のことであろう。善法寺も専想寺同様本願寺から重視された寺ということになり、豊後さらには九州における真宗布教の中心寺院の1つとも考えられる。方便法身尊像は立像の阿弥陀如来の絵像で、本願寺から下付され本尊として安置する。裏書には年号や宗主名 本末関係などを記す。県内には15世紀末から16世紀にかけての年号を有するものが分布しているので、中世の浄土真宗の広がりがある程度判明する。本末関係はほとんどが「興正寺末」であるが、下毛郡一帯は「仏照寺末」となっている。
〈専想寺とキリシタン〉
専想寺の所在地である 高田(たかた)荘 (大分市)は キリシタン の多い地域であった。天正13年(1585)の1月から9月までの間に洗礼を受けた者が1,365名もいた(『 フロイス日本史 』 豊後篇V)。さらに翌14年には、 府内 の近辺で2,550名もの人々が洗礼を受けている。そのうちの500名は 一向宗徒(いっこうしゅうと)(真宗門徒)で「その宗派に熱烈に帰依し(ており)高田付近に住んでいた」(同前)という。彼等が専想寺門徒であったことはほぼ間違いない。専想寺には門徒たちが キリスト教 に転宗したことを示す、天正14年のものと推定される 大友 義統(よしむね) の書状がある。内容は門徒の中で他宗(キリスト教)に転じ寺に妨げをなす者がいるが、そのような 狼籍(ろうぜき)を働く 輩(やから)は固くいましめるようにというものである。キリスト教に転宗した人々が、寺を焼いたり仏像 経典の類を焼却するということは、宣教師の報告に多くみることができる。天正7年(1579)の「 耶蘇(やそ)会通信 」には、 野津 のキリシタンが述べた寺院焼却の理由を次のようにあげている。@従来悪魔の神を 祀(まつ)っていた所に、尊い神を祀るわけにはいかない。Aこの市中に、過去の偶像の名残りや 徴(しるし)を何1つ残したくない。B長い年月、これらのものを祀ってきた気の迷いを全てなくしてしまいたい、などである。専想寺の場合も、6世唯念の時代に、キリシタンが夜討ちをかけ「 鯨声(ときのこえ)」をあげておびやかし、ついには放火して本堂を焼いてしまったという(「豊後国大分郡高田□森町村専想寺ノ縁由」)。これは唯念がキリシタンたちをいさめたことに対するねたみからだと記している(同掲書)。
〈辻本〉
専想寺の檀家の中に「ツジモト」と呼ばれる家がある。長州藩(山口県)の史料にある「 辻門徒(つじもんと)」が「ツジモト」になったとする説(児玉識『近世真宗の展開過程』)と、道場開基仏に相当する名号 絵像を安置する家のことを 厨子本(ずしもと)というので、「ズシモト」が「ツジモト」へ転化したとする説(森岡清美『真宗教団における家の構造』)とがある。専想寺の辻本は、世襲制でその地区で最も由緒ある家といわれ、寺から遠く離れている。また辻本には絵像 経本が備えてあり、地区内で死者が出ると絵像 経本を持って行き枕経をあげるという。これら辻本が専想寺の下で庶民階層への浄土真宗布教に、大いに関係したことは間違いあるまい。このほか専想寺下の道場も各地にみられるが、中世末から近世初期にかけて木仏 寺号を許可され、多くの真宗寺院が成立する。
参考文献 『本願寺史』
[小泊 立矢]
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