専売 ( せんばい)

“お上”の商い

 専売制度は特定の商品について、生産や販売を藩の手によって統制あるいは独占し、利益の集中をはかっていった制度である。そうした特定商品は「国産」とされて生産が奨励された。諸藩で専売制度が採用されるようになった背景には、およそ18世紀以降、多くの藩で深刻な財政難に見舞われるようになり、このための対策の一つとして登場したことに加え、江戸、大坂を中心とした全国市場の形成により、各種の商品が大量に取り引きされるようになったという経済環境の成立という事情があったことによる。専売には藩による生産独占、流通販売の独占、特定商人による委託販売などいろいろな形態がとられた。しかし、いずれにしろ特定商品の自由な生産や販売が厳しく制限されたことから、生産農民たちの不満がつのり、やがて専売反対の 一揆(いっき) などの行動を招くことになった。
〈紙を売った佐伯藩、臼杵藩〉
 宝永3年(1706)領民2人が紙買い上げのため「 請所(うけしょ)」の設立を藩から許可されたのが、 佐伯藩 での紙統制の最初であり、やがて正徳2年(1712)には藩の手により「 紙座 」がつくられて紙の独占的な買い付け、販売が行なわれるようになった。紙座では 紙 漉(す)き 農民に前貸しして原料の 楮皮(ちょひ) を買わせて紙を生産させ、製品買い上げの際に前貸し分を差し引くというしくみをとった。のちには、楮造りの農民に前貸しし、楮皮を買い上げてこれを紙漉き農民に売り渡す方法もとり原料生産の段階にまで統制を強めている。 臼杵藩 では安永2年(1773)楮、紙の領外移出などを禁じ、楮は栽培を義務づけた 御仕立楮(おしたてこうぞ) と自由作りの自分楮を藩が一括買い上げして紙漉き農民に前貸しを行い、製品は「紙方役所」が買い取る方法で紙専売を開始した。 文化一揆 により一時中断するが天保6年(1835)城下町人の買い付け制に切り変えた。
〈府内藩、杵築藩の青莚専売〉
 府内藩では文化元年(1804)「 莚会所(むしろかいしょ) 」を設置して 青莚(あおむしろ) の買い付けと販売に乗り出したが、度々の禁止にもかかわらず抜け売りが絶えなかった。買い付けた青莚は主に大坂問屋の 鴻池(こうのいけ)伊助に販売を委託した。 天保改革 に際して青莚専売は財政再建の目玉の一つとされ、大消費地江戸への直送体制をとって利益をあげた。青莚利益は貸付事業などに転用された。 杵築藩 では寛延3年(1750)莚元方3人に青莚の買い付けを独占させたのが始めで、安永6年(1777)には24人の莚株商人に買い上げを指定させるなどしたが、文化5年(1808)藩の独占買い上げ制をとるようになる。天保3年(1832) 青莚仕法(せいえんしほう) を制定して大坂へは大坂蔵屋敷への独占出荷の体制をとるなど統制を強化し、また江戸直送の体制も整えていった。なお、臼杵藩でも天保元年(1831) 八幡田(はちまんだ) (大分市)に「 七島会所(しっとうかいしょ) 」を設立して青莚専売を始めた。
〈森藩の 明礬(みょうばん)専売〉
  鶴見村 ( 森藩領 、別府市)は 野田村 ( 幕府領 、同)とともに全国の 明礬 生産の約3分の1を占める明礬の村として有名であった。森藩ではこの特産を 小浦(こうら)村(別府市)の脇(のち脇谷)氏を中心に経営されていた。享保20年(1735) 脇氏 らは江戸、大坂に「 明礬会所 」の設立を幕府から認められ、独占的な取り扱いをする。明礬山はのちに森藩の 御手山(おてやま) (直轄)となるが、明礬製造は脇氏を中心に進められた。
〈中津藩の 藍(あい)、 櫨(はぜ)専売〉
 文化2年(1805)「 藍玉(あいだま)役所 」を設けて藍玉の領内販売統制を始めた。3人の問屋に地藍、他所藍の販売を委託した。櫨については安政5年(1858)「 櫨会所 」を設き、領内3か所に櫨実集荷所を設け櫨仲間が買い付けを行い、臘板場仲間が製造販売した。
〈その他の専売品〉
 佐伯藩では正徳元年(1711)から享保元年(1716)、「 米座 」を設け米の領内独占販売を行い、また移入塩の独占販売を 塩場所 を設けて行い(宝暦6<1756>〜13)、あるいは藩営木場での 樵木(こりき) (燃料木材)の独占買い付けを行った(寛政2年<1790>より)。臼杵藩では18世紀末ころより藩営の 竃(かま)による 石灰 焼成を行うようになり、一時中断するが文久2年(1862)石灰を国産に指定し「産物方」を置いてこれを管理させた。翌年には城下に「 産物会所 」、津久見に「 石灰役所 」、三重に「産物会所」を設けて藩内産業の掘り起こしと統制を強めていった。中津藩でも幕末、 種子油(たねあぶら)や材木、塩についての販売統制を行った。
〈 岡藩 の商品統制〉
 19世紀の前後、藩財政再建を目的として「 御物会所(おものかいしょ) 」「 製産会所 」を新設し、領内の諸産物(国産)の独占的な買い付けをすすめた。農民の生産を強圧的に絞り取ろうとする藩のこうした方法に対抗して、農民は文化一揆を通じてその廃止を追っていった。
[秦 政博]

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