泉福寺 ( せんぷくじ)

豊後曹洞禅の巨刹

 永平寺3代で、のちに同寺を退いた 徹通義介(てつつうぎかい)は道元禅の一般世俗への布教をはかり、密教的祈祷を認めるとともに在俗の関心を高めるために 伽藍(がらん)仏教を復興する。また義介の法嗣(後継者) 螢山紹瑾(けいざんじょうきん)はさらに曹洞禅の民衆化をすすめ、民間信仰も容認している。こうして南北朝時代から室町時代にかけて、 曹洞宗 教団は全国的にめざましい発展をとげる。 万寿寺(まんじゅじ) (大分市)を中心に 臨済禅 の広まっていた二豊の地にも、南北朝期後半には曹洞宗寺が開かれる。 妙徳(みょうとく)山泉福寺である。
〈 無著妙融(むちゃくみょうゆう)と泉福寺〉
 永和元年(1375)、 横手村 (国東町)に泉福寺を開いた 無著妙融 は、大隅(鹿児島県)の生まれで19歳の時に日向大慈寺の 剛中玄柔(ごうちゅうげんじゅう) (豊後の人、東福寺54世)のもとで出家している。その後各地で修行し再び日向に帰る。応安7年(1374)には、佐賀関神崎に洞光山 永泉寺(えいせんじ) を創立している。一説には 大友 親世(ちかよ) が古くからあった永泉寺を修築し、無著を請じたとある。翌永和元年には 田原 氏能(うじよし) の母 無伝仁公尼 の請により国東の地に赴くが、大友 惣領(そうりょう) 家と 庶子 田原氏との関係からみると、無著の国東行きは十分に考えられることである。泉福寺建立については、いろいろと伝えられているが、だいたい次のような形式である。「無著禅師が寺を建立しようとして適地を見つけたが水が無かった。すると一童子が現れ、杖の下に水の出ることを告げた。喜んだ無著禅師は童子に名を問うた。童子は妙徳と答えて姿を消した。妙徳は 文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の名であるので、文殊菩薩が水を授けてくれたのだと考え、山号を妙徳山、寺号を泉福寺とした」。国東半島といえば、古くから 六郷満山 寺院の分布する 天台宗 の勢力圏である。当時泉福寺を建立した地域で力を持っていた六郷山寺院は 文殊仙寺(もんじゅせんじ) であった。そこで無著は、霊水 童子(文殊菩薩)の話を介して進出をはかったのである。曹洞宗が密教的信仰や民間信仰を容認して発展をしていった一例ともいえよう。その後江戸時代後期まで、毎年正月には泉福寺から文殊仙寺に 参詣(さんけい)に出かけている。無著が泉福寺を開くと、彼のもとには多くの僧が参集した。次表の16人は無著の法嗣といわれる人たちである。こうして泉福寺は、豊後のみならず九州一円の曹洞宗の根本道場となるのである。伝えによると常に500人の僧が修業していたという。文安3年(1446)には、仏殿 僧堂 三門 庫院 衆寮 浴室 祖堂 法堂 方丈 経蔵 鐘楼 宝蔵 鎮守祠、さらに支院が5で回廊の長さが約120間(約216m)あったという(「妙徳寺法王林泉福寺禅寺草創記」)。当時の泉福寺の姿が想像できる。無著は明徳4年(1393)8月12日に 遷化(せんげ)(死去)している。 遺偈(かいげ)(臨終の際に作り、後人に残す詩詞)は「法法本来法、心心無別心、玉兔(月)常当戸、白日不移輪」というものであった。遺体は 荼毘(だび)に付され寺の東北に収め塔を建てたという。現在の開山堂も東北の位置にあたり、無着像と石造 無縫塔(むほうとう)が安置されている。この塔は無著の墓塔と伝えられ、国指定重要文化財開山堂の 附(つけたり)指定となっている。無著の弟子たちは、豊後北部から豊前の地にかけて多くの寺の開山となっている。これらの寺が開かれた時期は応永年間(1394〜1428)の前半に集中している。だいたい無著の法嗣16人が1年輪番制で泉福寺に住した期間と一致している。寺伝によると、天正9年(1581)大友氏によって焼かれ、堂宇の大半を失ったという。
〈大雄殿と開山堂〉
 現在の泉福寺で、室町時代の建物として残っているのは大雄殿(仏殿)である。 扁額(へんがく)に大永6年(1526)の銘があり、棟札によって元禄7年(1694)に大修理を行ったことが分かる。内陣の 厨子(ずし)と共に県指定有形文化財になっている。元禄年間の修理で、建築当初と少し変更がみられるが、室町時代後期の本格的禅宗様仏殿としては九州では珍しい。開山堂は応永年間に、無著の墓の覆屋と礼堂を兼ねて建立されたものであるが、現在の堂は寛永13年(1636)に再建したものである。扁額に「可中」の文字と、裏面に「応永元年甲戌八月吉祥日 奉建立可中影堂壱宇 前住明岩現住洞岩嗣法弟子等」とあり、無著の1周忌に建立したことが分かる。明和元年(1764)には拝殿が設けられている。禅宗様の切妻の堂として、本格的で風格がある。国指定重要文化財。
 参考文献 鈴木泰山『禅宗の地方発展』
[小泊 立矢]

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