今川了俊 ( いまがわりょうしゅん)

足利方九州勢の統一者

 1326−? 従来は『今川家譜』や『今川記』により、正中2年(1325)誕生、応永27年(1420)没とされていたが、現時点では嘉暦元年(1326)生まれ、没年不詳とする説が定説化しつつある。南北朝期の武将。当代を代表する歌人。父は今川 範国(のりくに)。母は不詳。実名 貞世(さだよ) 。左京亮 伊予守。正五位下。貞治6年(正平22、1367)室町幕府内談引付 頭人(とうにん)。侍所頭人 山城(やましろ)守護を兼ねる。同年末将軍 足利 義詮(よしあきら) の死を機に 剃髪(ていはつ)、了俊と号す。応安3年(建徳元、1370) 九州 探題(たんだい) 。応永2年召還後は 駿河(するが)半国守護。「今川 大双紙(おおぞうし)」 「今川状」 「 難太平記(なんたいへいき) 」等を著す。
〈九州探題の任命と九州下向〉
 九州探題の前身は 鎮西管領(ちんぜいかんれい) と称され、 一色範氏(いっしきのりうじ) (法名 道猷(どうゆう) )を初代とし、 斯波氏経(しばうじつね) に引き続がれた。 懐良(かねよし)親王 を中心とする九州 南朝 軍最盛期の中、貞治3年の感状発給を最後に氏経は帰洛する。その後任に命じられた 渋川義行(しぶかわよしゆき) は、中国筋を行き来するだけで九州には入らなかった。その後、山名時氏の子師義が候補にあがるが決定せず、応安3年ようやく了俊の九州探題が決定した。この了俊の決定とかねて 田原 氏能(うじよし) が建議していた 籌策(ちゅうさく)(はかりごと)が検討された旨が、6月26日付けで赤松 則祐(のりすけ)から氏能に通知されている。了俊も氏能に7月1日付けをもって九州下向を告げて協力を要請している。翌4年正月には 阿蘇氏 や 都甲(とごう)氏 にも九州下向を告げ、2月19日に下向の途についた。途中、中国地方経営のため安芸守護に任じ、中国筋の諸雄族を集めて兵力を増強した。田原氏能は上洛よりの帰途了俊と会談したらしく、了俊の嫡子 義範(よしのり) と同道して尾道より海路豊後に向かい、7月2日夜 高崎城 に入っている。また、了俊は11月に入って弟 仲秋(なかあき) を肥前国松浦に上陸させた。これは、義範と大友勢とで南朝勢の本拠地肥後を突かせ、仲秋には松浦党と共に西から大宰府を攻めさせ、自身は豊前から 大宰府 に進入する作戦によるものであった。了俊は、12月19日門司に上陸して陣を構えた。豊後では、守護が 氏継(うじつぐ) から 親世(ちかよ) に代わり、8月6日以来の南朝軍の攻撃に耐えていた。南朝軍は了俊の九州下向に対応するため、応安5年正月2日陣を引くが、攻防は百余度に及んでいる。義範以下大友軍は探題軍に合流しようとするが、南北への帰属をめぐる 国人(こくじん)衆 の動きに左右され出発が遅れた。この結果、3月8日には氏継が 願文(がんもん)を 柞原(ゆすはら)八幡宮 に奉って南朝方に 奔(はし)ってしまう。義範 大友軍が筑前高宮で了俊と合流するのは3月26日のことである。
〈了俊の九州制圧〉
 応安5年(文和元)8月12日、大宰府は了俊の手中に落ちた。以後、対立の場は筑後 肥後へと移っていく。戦線が筑後川をはさんで 膠着(こうちゃく)状態となると、氏継系国人衆の挙兵が相次ぎ、田原氏能らは帰国の上掃討にあたらねばならなかった。次第に劣勢となった南朝軍は、2年間持ちこたえた本拠 高良山(こうらさん) をすて、肥後菊池に撤退しなければならなかった。永和元年(天授元、1375)、軍を菊池郡水嶋に進めた了俊は、一気に勝負を決すべく、九州三人衆と呼ばれる大友親世 少弐冬資(しょうにふゆすけ) 島津 氏久(うじひさ) に参陣を求めた。氏久の仲介によってようやく参陣した冬資は、8月26日の歓迎の宴で仲秋によって刺殺されてしまった。氏久は、面目を失うとして南朝方に応じた。親世の同調を恐れた了俊は、 佐賀郷 大佐井(おおざい)郷 など豊後国内の地を与えて 慰撫(いぶ)し、一旦肥前に後退する。同3年正月、肥前巻打に進出して来た菊池 阿蘇勢は、起死回生の決戦を挑むが、今川 大友 大内勢に大敗する。以後、南朝勢力は次第に衰え、明徳3年(元中9、1392)の南北朝合体を迎えることになる。
〈了俊の探題罷免〉
 応永2年閏7月、了俊は突然召還された。探題在任25年目のことである。召還の理由には、幕府機構にかかわるもののほか、 大内 義弘(よしひろ) 大友親世とのかかわりも深い。特に、九州探題を熱望する義弘の画策が罷免の一因ともなっている。「難太平記」によれば、義弘が了俊に対し弱者は罪が少なくても不審を 蒙(こうむ)り面目を失うが、強者は上意に背いても許されるのが世の常である。したがって、了俊と大友親世と自分義弘が同心したならば、将軍など物の数ではないので、中国 九州連合政権を樹立しようと勧誘して来たが、これを拒否したとある。さらに、「大内が方便をもって我々九州をはなれき」と、義弘の 讒言(ざんげん)を明らかにしている。一方、親世と 島津 伊久(これひさ) との往復書簡によれば、親世は新探題決定までの代行を誇示し、伊久は水島の陣の面目を回復したと、共に了俊の召還を喜んでいる。その背景には、田原氏能ら了俊の 右筆(ゆうひつ)が 小番(こばん)衆 として将軍と直結し、守護を 牽制(けんせい)するという制度の崩壊も考えられる。了俊は九州探題再任を期待していたが、駿河半国を与えられるにとどまり、失意のうち本拠遠江に 隠棲(いんせい)する。以後、和歌 連歌 著述に傾注する。
 参考文献 川添昭二『今川了俊』
[橋本 操六]

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