善光寺 ( ぜんこうじ)

時衆の一大拠点

 宇佐市大字下時枝字西ノ端。初めは 天台宗 、後に 時宗 、寛文6年(1666)に 浄土宗 に転宗し、現在にいたる。善光寺、別称は 芝原善光寺 、 豊前善光寺 。山号は梵天山。信州(長野県) 甲州(山梨県)と並ぶ日本三善光寺の一つ。当寺鎮守は 天満宮 。江戸時代の 塔頭(たっちゅう)として、来迎院 増長院 則成院 摂取院 薬王院 専称院 洞雲院 正覚院 大日堂 無量院 地蔵院が存在した。
〈善光寺に伝わる伝承〉
 伝承によれば、天徳2年(958)遊行聖の光勝 空也(くうや)上人 ( 醍醐(だいご)天皇の第5皇子ともいうが不詳)を開山として創建。上人は衆生普済の大願を発し、 宇佐八幡宮 に百日間 参篭(さんろう)せられ御 託宣(たくせん) (神のおつげ)により、白髪の老尼の誘導に従い芝の地に来て、一宇を建立し本師如来を安置、その後、正暦4年(993)に永世護持の 勅願所 になったという。本堂の北東隣接地に空也上人の 五輪塔(ごりんとう) がある。石囲いの芝自生の一区画がその伝承地で、芝原善光寺の寺号の由緒地でもある。五輪塔は 凝灰岩(ぎょうかいがん) 製で、塔高130p、地輪に「空也上人」水輪に「開山」と彫られており、南北朝期の初期ころに造立されたものと推定されている。当寺は平安時代にすでに建立されていたようである。
〈宗派の変遷と領主の保護〉
古代 中世において、 遊行聖(ゆぎょうひじり) が全国を 廻国(かいこく)していた。文永11年(1274)秋、 一向俊聖 は宇佐宮で四十八夜の踊り念仏を修しており、恐らく善光寺へ立ち寄られたであろう。また、「 一遍(いっぺん)上人年譜略」(『続々群書類従』)によると、文永8年(1271) 一遍 上人は求道のため信濃の善光寺へ 参詣(さんけい)、建治元年(1275)37歳の時には宇佐宮にも参詣され、三七日(21日間)祈願したところ、夢の中に神が現われ託宣があったと記載している。宇佐郡に滞在されていた事実から、善光寺にも足を延ばされたことは確実で、善光寺の聖に多大の影響を与えたものと推定される。 佐田神社 ( 安心院(あじむ)町)にある正慶元年(1332)銘の 板碑(いたび) に「四十八日 時衆 八十人各敬白」とあり、宇佐郡には早くから時宗が浸透していたことが知られる。当寺所蔵の近世文書によると、永和年中(1375〜79)ころまで 念仏宗 、一時期天台宗 真言宗 になったこともあり、永和年中以後は時宗に転宗したが、その間に禅宗 浄土宗に転じたこともあったとしている。文明6年(1474)に浄土宗布教のために 天然(てんねん) が豊前国宇佐郡に来たといわれ、この時に時宗から浄土宗に転じたことも十分に考えられる。しかし、以上のことを証明する中世文書が現存せず、真偽のほどは不詳である。幸い「 到津(いとうづ)文書 」の中に、唯一注目すべき記事が見える。それによると、天文18年(1549)4月15日、 遊行上人 の一行60人が豊後国から宇佐宮に参詣された後、善光寺へ出向かれており、この時に 宇佐 大宮司(だいぐうじ) 宮成 公建(きみたて) の女中も同行していたことがうかがわれる(『 大分県史料 』24「到津文書」)。善光寺に立ち寄られたという事実から、当寺が時宗寺院であったことが裏付けられ、この地域における時宗の一大拠点であったことが判明する。この時の遊行上人は28代 遍円(へんえん) 上人(25代仏天の弟子)で、同年2月9日豊後府中(大分市)の 稱名寺(しょうみょうじ) を起点にして、 賦算(ふさん) (「 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の名号 札(ふだ)をくばること)しながら諸国を巡行していた。天正10年(1582) 時枝 鎮継(しげつぐ) は善光寺に対し加燈料所として、田1町を寄進している。慶長13年(1608) 細川 三斎(さんさい)( 忠興(ただおき)) も法事勤仕と本堂以下の修理料として、居屋敷分9石9斗、 高家(たけい)村の内10石1斗、合計20石を寺領として寄進、以後領主の厚い保護を受けている。
〈豊富な文化財〉
 本堂(国重要文化財)は建長2年(1250)の再建で、修理をしながら現在に至ったもの。 桁行(けたゆき)五 間(けん)、 梁間(はりま)七間、棟高10.68m、単層で屋根は寄棟造、本 瓦葺(かわらぶき)、軒は二重 繁垂木(しげたるき)、 組物は三ツ斗、 斗拱(ときょう)には和様と唐様とが混入している。 柱はすべて円柱。 本堂の内部は、 内陣(ないじん)、 外陣(げじん)にわかれ、内陣は三間四面、折上格天井、柱は黒漆塗、外陣は化粧屋根裏を表し、四本の大 虹梁(こうりょう)を架し、中央には 枡(ます)組を置き、すべて素木造である。外陣は再建当時のままの様式を存している。江戸時代に付け加えた正面(南面)の 唐破風造向拝(からはふづくりご(こう)はい)を含めて、建坪約165uに及ぶという。建武4年(1337)銘の板碑(県有形文化財)は、 比丘尼(びくに)穏阿の十三回忌に極楽往生を願って建立した供養碑で、比丘尼穏阿は時衆関係の人物と考えられる。本尊の 銅像阿弥陀如来立像 (県有形文化財)は、一光三尊形式のいわゆる善光寺如来の中尊で、像高39.1p、南北朝時代(14世紀前半)のものと推定されている。頭に怪鳥をいただく 鬼瓦(おにがわら) (県有形文化財)は建長2年再建時のものといわれるが、様式から室町時代と推定されている。また、応永30年(1423)銘の 宝筐印塔(ほうきょういんとう) の基礎も残存、幅33.5p、高さ23pで、「本願聖賢誓敬白」の銘があり、念仏行者が善光寺を本拠としていたことがわかる。
 参考文献 『大分県の文化財』
[乙・ 政巳]

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