前方後円墳 ( ぜんほうこうえんふん)

日本特有の墳墓形式

 弥生時代に続く4世紀から7世紀におよぶ「古墳時代」は、わが国の政治的統一から中央集権確立の過程である。その末期には中国風の律令国家を指向していくが、エジプトのピラミッドや秦の始皇陵をあげるまでもなく、統一期の支配者たちが巨大墳墓の造営に力を注ぐことは洋の東西を問わず共通しており、わが古墳はアジアにおけるその潮流の末端に位する。ただその墳墓造営形態に関して、とりわけ前期においてはまさに日本的というべき極めて特殊なありようを呈している。その象徴ともいうべき墳墓形式が、いわゆる前方後円墳といわれるもので、 椀(わん)を伏せた形の主丘(後円部)の一方の側面に細長い方丘(前方部)が接続した形態をとる。 古墳 の種類としては、もちろんこのほかに 円墳 方墳 などを基本形として幾つかのヴァリエーションが存在するが、古墳時代を通してあらゆる意味において前方後円墳が古墳の首位の座にあったことは銘記すべきである。近藤義郎が古墳時代をして「前方後円墳の時代」と称するのはこの故である。
 すなわち前期段階の前方後円墳の分布情況をみると、大和盆地を中心として大形前方後円墳が分布し、一方地方においても弥生時代以来の拠点的位置には多くの場合前方後円墳が存在する。それらが古墳外形だけでなく、主体部の構造( 竪穴(たてあな)式石室 割竹形木棺 )や副葬品( 三角縁神獣鏡 各種 碧玉(へきぎょく)製品)までも高い共通性を有していることは、明らかに自然発生的なものではなくて、墳墓祭式の統一が強制力をもって行われたことを伺わせるに十分である。大和盆地に存在したであろう初期 ヤマト政権 の中枢と、前方後円墳に葬られるにいたったそれらの地方豪族との関係がどのようなものであったのかについてほとんど明らかではないが、前方後円墳という特殊な形態をもつ巨大墳墓の造営並びにそこで執行される厳かな首長権継承儀礼は、支配する民衆に対しては新たな権威と威圧の根源となり得たであろうし、首長にとってはヤマト連合の一員としての結束の 紐(ちゅう)帯として作用したであろうことは想像に難くない。
 ところで、前方後円墳がいつどのようにして成立したかについてはまだ未解明の部分が多い。それでも次第に明らかになりつつあることは、畿内の弥生社会の中だけで完結的に成立したものではなくて、例えば前方部の発達や 円筒 埴輪(はにわ) については 吉備(きび)や出雲地方の先駆形ないしは祖形から、銅鏡の多量副葬の風習は北九州地方からというように有力地域の各種の要素が大和に寄り集まって前方後円墳の原型が出来上がったようである。それがマキ向石塚古墳に代表される前方後円型古墳といわれるものである。県下では 安岐(あき)町 下原古墳 が該当する。そして巨大化して登場する大和盆地最古の前方後円墳とされているものが、箸墓古墳である。前方部先端がバチ形に開く古式の形態的特徴をもつほか、吉備地方の特殊器台と同じ組帯文の施された円筒埴輪が出土している。
 その後前方後円墳は、一部の地域では7世紀まで残るものの中央集権体制の確立に伴いほとんど6世紀代で姿を消してしまう。その間5世紀には 応神陵(おうじんりょう)古墳や 仁徳(にんとく)陵古墳に代表されるように極大化したものが現れ、一般的に地方でもこれに追随するが、その後新しく横穴式石室が採用されるようになると後円部の縮小傾向が起き相対的に前方部の広がった形態が流行する。また地方では宇佐市 鶴見古墳 のように30m前後の小形の前方後円墳が最末期に登場してくる。6世紀半ばの磐井の乱を境にして地方豪族の秩序の再編が行われた結果であろうか。
 大分県内でこれまでに発見されている前方後円墳の数は消滅したものも含めて42基である。宇佐市 川部 高森古墳群 のように6基の前方後円墳がコンパクトにまとまって4世紀から6世紀におよぶ歴代墳墓を構成するところもあれば、海部地域のように5世紀代にのみ県下最大級の前方後円墳を築いた地域もある。前者のタイプには 七ツ森古墳群 を擁する 菅生(すごう)台地 も該当しよう。また前方後円墳の存在形態を地域支配という視点から類型化してみると、大分市のように前方後円墳は郷を基盤として成立するが1郷から歴代の支配者が出るのではなく順次有力郷に変わってゆくタイプがある。郷が比較的小さい場合が多い。海部の首長も郷を単位としている点ではこれに近い。次に 来縄(くなわ)郷 や 三重郷 のような大きな郷に比較的散在的に存在する首長墓群がある。古墳の詳しい年代を判定する資料がないため古墳の配列が分からないが、郷を構成するいくつかの有力豪族に首長権が次々に継承されて、恐らくキ制的な関係の歴代墳墓を形成するのであろう。最後が宇佐の場合の広域型とも言いうるタイプである。たくさんの郷の存在と拘わりなく1か所に歴代墳墓を形成している。
 このような地域支配の諸タイプがどのようにして出来上がってゆくのかまだよく分かっていないが、それぞれの地域における各時期の支配形態を詳細にみてゆくと、大分ではピラミッドの頂点に立つ首長墓と下位にランクされる小地域首長との格差が大きいことが指摘される。少なくとも5世紀中ごろまでの段階では、前方後円墳に対し 方形周溝墓 (方墳)という 明瞭(めいりょう)な対比がある。このことは前方後円墳の意義をより鮮明に物語っている。
[真野 和夫]

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