細川氏 ( ほそかわし)
熊本藩領豊後2万石
細川熊本県知事は、江戸時代の熊本藩主細川氏の出身であることでも知られているが、その肥後熊本藩は豊後 豊前と深い結びつきを持っている。江戸時代の初期までは、豊前 中津藩主 として、その後、熊本に転封した後は鶴崎を中心に豊後に2万石の 飛地 を領することになる。
〈出自〉
細川氏は、室町幕府の管領の一族であり、三河国(愛知県)が 本貫(ほんがん)の地である。慶長5年(1600)、徳川家康から速見 杵築6万石を与えられた 細川 忠興(ただおき) は、永禄6年(1563)11月、細川兵部大輔藤孝( 幽斎(ゆうさい))の子として京都に生まれた。忠興の正室は、明智 光秀(みつひで)の娘玉でガラシアという洗礼名を持つキリシタンとしても有名である。忠興は、黒田氏が福岡に転封になった後、豊前国( 規矩(きく) 京都(みやこ) 田川 築城 仲津 上毛 下毛 宇佐)と豊後国国東郡とを合わせた30万石の領主として、慶長5年(1600)12月、子の 忠利(ただとし) と丹後田辺(京都府)から中津に入部している。
〈中津藩主として〉
細川氏は、中津入部後、城づくり、町づくり特に 中津城下町 の整備と領内総 検地 、 人畜改(じんちくあらた)め、 キリシタン 弾圧などを行っている。検地については、23か条におよぶ詳細な施行規則をもとに、慶長6年(1601)の春から7月にかけて実施している。禅源寺の『年代記』には、「村々山里共に田畑ノガレナシ」と記されており、具体的に村々の実情を正確に把握しようとしたものであったようである。元和8年(1622)には、農民からの夫役徴発のため、領内に「 人畜改帳 」の作成を命じ、城下町を除く領内の各村の村高、家数、人口、牛馬数をしらべさせている。
細川氏は、熱心な キリシタン大名 でもある。忠興もキリスト教には理解を示し、小倉に伝導所をつくったり嫡子忠利も中津に伝導所を設けている。「 松井家文書 」によれば、福島 宮永(中津市)では、 惣庄屋 など有力農民を中心に キリスト教 が広まっていることがわかる。しかし、元和4年(1618)には、政治的利害と 傲慢(ごうまん)から小倉で25名、中津で13名を極刑に処したといわれる弾圧を細川氏は行っている(『日本切支丹宗門史』)。
〈中津から小倉藩主、熊本藩主へ〉
慶長7年(1602)領内検地を終え、領内を掌握した忠興は、居城を中津から小倉へ変更し、小倉にいた嫡子忠利を中津へ置いた。その後忠興は、土豪の反乱を防止するために、小倉、中津、 龍王(りゅうおう)( 安心院(あじむ)町)の3城以外は領内の城を全てつぶしてしまっている。元和6年(1620)、眼病に悩まされていた忠興は、家督を忠利に譲り、出家して「 三斎(さんさい)宗立」と称し、隠居し 中津城 へ入り、忠利は6月に小倉へ移っていった。 三斎 は、自らの領地として8万石を持ち、中津城下町の整備に力を入れたが、寛永9年(1632)加藤氏の後を受け、三斎、忠利父子は肥後54万石の藩主として熊本に転封した。
〈熊本藩領2万石〉
熊本へ移った後も前藩主加藤氏が大分県下に領有していた飛地、鶴崎 大在 坂ノ市(大分市)、佐賀関、野津原、谷(挾間町 庄内町)、久住 白丹(しらに)(久住町)など2万石を受け継ぎ、細川氏と大分県のかかわりは続くことになる。忠利は、寛永10年(1633)より領内の検地を行い、ここでも「人畜改帳」を作らせ、 手永(てなが)制度 を採り入れ、飛地を支配していく。
なかでも鶴崎は、豊後領の中でも政治的中心として位置付けられており、熊本藩の瀬戸内に向っての海の玄関口として重要な役割を果たしたといわれている。
鶴崎の町には、 陣屋 としての「 御茶屋 」が、現在の 鶴崎小学校 、 鶴崎高校 付近に設けられ、規模は、約109m四方で、周囲には堀があったと伝えられている。その他、豊後領2万石の総責任者である 鶴崎番代 の御番宅(役宅)(現在東鶴崎3丁目北西付近)や 大野川 畔の渡し場には、藩の建築営繕を掌る御作事所、 御米蔵 (現在の市役所鶴崎支所付近)、諸 会所(かいしょ) などが置かれ、鶴崎の町は、城下町的な様相を示していたようである。
歴代の藩主は、 参勤交代 の際、熊本より久住 野津原を通り鶴崎まで陸路をたどったため、各宿場には陣屋が置かれた。今市(野津原)には、当時の 石畳 の参勤交代の道が残っており、鶴崎からは、海路を通ったため、藩主の乗った「 波奈之丸(なみなしまる) 」専用の係船場もあったようである。
〈杵築城代松井氏〉
忠興は、豊後に与えられた国東郡と速見郡の6万石の領地に、近臣の 松井康之 らを城代として 木付(きつき)城 に派遣している。細川氏が肥後に転封になったおり、城代の松井氏も主人に従って八代(熊本)に移っている。
[佐藤 香代]
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