細田徳寿 ( ほそだとくじゅ)
官選知事から初の民選知事へ
1904− 茨城県水戸市出身。第37 39 40代の大分県 知事 。初の知事選挙を前にした1か月間を除き、昭和20年(1945)10月から30年4月までの約10年間在任した。 官選知事 として赴任し、そのまま初の 民選知事 となり、4年後も再選された。知事退任後は東京に帰り、厚生省社会審査委員会委員 住宅公団管理委員会委員(いずれも32〜40年) 全国防災協会副会長(54〜62)等を務め、54年末以来86歳の今日に至るまで、八信商事株式会社取締役会長の地位にある。現住所は東京都目黒区上目黒4−41−20。
〈大分県赴任まで〉
水戸中学 第1高等学校 東京帝国大学法科政治学科卒業。昭和3年内務省入りし、秋田県 神奈川県 富山県などに勤務ののち、厚生省医務課長 警視庁保安衛生部長 陸軍司政官 内務省河川課長を経て(『大分県総合人事名鑑』等)、20年10月27日第37代大分県知事に発令された。当時細田は41歳の若さであり、鳥取県に転出した林敬三(昭和4年内務省採用)につぐ 抜擢(ばってき)組といわれた。趣味は謡曲 登山 乗馬等。
〈官選大分県知事時代〉
細田官選知事時代は 幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣と第1次吉田茂内閣の時代にあたる。占領行政が本格的に展開し始め、軍国主義者の公職追放令、財閥解体指令、婦人参政権を含む新選挙法の成立、天皇の人間宣言、労働三法の施行、農地改革の実施、日本国憲法の公布等々、戦後改革の全ぼうが一挙に出そろった激動の時代であった。また、食糧難とインフレの中で、2 1ゼネスト宣言が発されて決行寸前まで行ったことにみるような多難な時代でもあった。知事の政治姿勢はもとより、県政機構も大きな変容を求められ、内政部は内務部を経て総務部と名称変更するとともに、経済部 農地部 土木部 教育民生部などを発足させて、新しい時代に対応した。こうして、戦後社会の方向と県政機構の骨格が固まった時代であった。細田が、22年3月14日知事を退職、 和久田(わくだ)鉄雄 と交替したのは、知事選挙に出馬するためであった。
〈3度の知事選挙〉
22年5月の地方自治法施行を前に、4月5日初の知事選挙が行われた。官選知事の多くがそうであったように、細田も立候補した。細田(無所属)のほか、保守系では元大審院判事の 小玉治行 (無所属)、前県会議長の 黒岩岩太郎 (無所属)も立候補したが、細田は保守票を結集して20万票を獲得、革新統一候補の 安田幹太 ( 日本社会党 )に6万票余の差をつけて、初の民選知事に当選した。「県民になりきって、県民とともに仕事をやりたい」というのが当選の弁であった。しかし、「県人知事」「非官僚知事」「党人知事」を追求する声は25年にも 湧(わ)き起こり、30年の知事選挙につながって行く。そんな中で、第2回(26年)選挙では 平野学 (日本社会党)に5万票の差をつけて再選された。 金光庸男(かねみつつねお) や 村上勇 の擁立がならず、保守勢力の一致した支持を得たからである。しかし、第3回(30年)選挙では県議会議長岩崎貢との調整がつかず、自由党の岩崎に対して細田は民主党を基盤に出馬し、革新統一候補で前右派社会党代議士の 木下 郁(かおる) に敗北した。その間細田については、代議士への転身や建設省の次官就任の噂もとびかったが、民選知事としての2期8年を全うした。
〈大野川河水統制事業と昭和井路〉
細田県政の大綱は、「民生の安定」「県政の民主化」「治山治水」を柱とする『大分県政重要施策要綱』(22、23年)や、県営産業開発株式会社案を提起した『県勢振興総合計画書』(26年)などに見られるが、代表的施策は 大野川河水統制事業 であろう。 昭和井路 事業を含む総事業費は当時の金で23億円余に達したが、大分県の最大河川に関わるものであり、その影響も大きなものがあった。17年から32年までの工事期間のうち、消滅しかけていた事業が細田県政下で再生し、ほぼ完成の見通しを得るまでに推進されたのである。最初の県営発電所である大野川発電所は27年に営業を開始し、翌28年には昭和井路が最初の部分通水を見た。 大野川発電所 の最大出力は1万100kW(h、昭和井路完成時の)潅漑(かんがい)面積は、2,100haに達した。事業事務局は、やがて電気局(のち企業局)となり、現在は発電所4か所とダム管理事務所2か所を管理し、180人余の職員を擁している。細田県政は、治山治水と電源開発を通じて、大分県の「農業県的なあり方にプラス工業県的な性格を付与」しようとしたのである。
参考文献 大分県総務部企画調整課編『戦後県政の回顧』 大分県企業局『大分県電気局史』 大分県農政部耕地課『大分県土地改良史』
[末広 利人]
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