三浦梅園 ( みうらばいえん)

玄贅二語未ダ合セズ

 1723−1789 近世地中期の思想家 医師。 諱(いみな)は晋、 字(あざな)は安貞、 攣(れん)山、洞川などと号する。梅園は彼の私塾名という。享保8年(1723)8月1日 杵築藩 領国東郡富永村( 安岐(あき)町)に生まれる。父義一(快順)は家業の医師を継ぐ一方俳諧を好む。母は 総(ふさ)。
〈戯れに学徒に示す。〉
 梅園研究の草分けであり、日本の科学哲学研究の、ある意味での創始者である 三枝博音(さえぐさひろと)によれば、わずか9か条(437字)の『戯示学徒』(『日本科学古典全集』第1巻所収)には、「学における謙譲」「人間の倫理」「鋭い風刺」が「ゑがかれて」いるという。第1条は「学問は飯と心得べし、腹にあ(飽)くの為なり、かけ(懸)物などの様に人にみせんずる為にはあらず」といい、3条では「学文(問)はくさ(臭)きな(菜)の様なり。とく(毒)とくさ(臭)みをさ(去)らざれば用ひがたし。少し書を読めば少し学者臭し。 余計(よけい)書を読めば余計学者くさし。こま(困)りものなり」という。学問に対するきびしい取り組み方を、わかりやすい比喩で我々後学の者に教えている。梅園は結びを次のように言う。「足の皮はあつ(厚)きがよし。つら(面)の皮はうすきがよし。人 諸共(もろども)に 小賢(こざか)しく口はきけど、行ひは女童に見限らる。さる故、 面(つら)の皮あつくなり、足の皮うすくなり、株ふ(踏)む事多し。よく心得てつつし(慎)むべし」。この記載について、飯田賢一は「日本における近代技術思想の形成」(『日本近代思想大系14科学と技術』解題)という文で、ここで梅園が言いたかったことは、足の皮、つまり農業における生産的実践の重視であるという。そして、梅園は、フランスの百科全書派と同じく「学問的知識(理論)は実践に結びつくこと」が大切なことを指摘した、日本における先覚者だという。
〈人間「梅園」への接近〉
 梅園は、「条理の哲学」を説いた偉大な哲学者であり、特に難解な理論の展開の側面が強調されることが多い。確かに、梅園の真骨頂は、「梅園三語」といわれる「 玄語(げんご) 」「 贅語(ぜいご) 」「 敢語(かんご) 」など哲学的思索にあるのは言うまでもない。しかし、間々には、難解であることが梅園の偉大さを表しているかのごとき論もないとはいえないし、またそれが、一般に人々に梅園という人への取り付きにくさを与えている。が、それこそが、梅園のいう「少し学者臭」い論理であろう。私たちは、梅園をもっと身近な人として人間「梅園」という視点からとらえてみたい。
〈「懐疑の人」梅園〉
 梅園に対する評価のなかで、生涯その師としたのは17歳から1年間通った杵築の 綾部 斎(けいさい) と、21歳のとき60日間学んだ中津の 藤田 敬所(けいしょ) の二人だけであり、あとは 両子(ふたご)山 中で、ひたすら思索する生活だったというものがある。この評価は、それなりに意味があるが、皮相的な見方をすれば、梅園を一人よがりな 頑迷固陋(がんめいころう)な人物と考えられないでもない。幼少時に、有名な近江八景「 唐崎夜雨(からさきやう)の図」を見て、暗い夜中に景色が見える筈がないと指摘したという。この逸話も、「 筈(はず)」を許さない「懐疑の人」という評価が与えられている。しかし、子供たちが「なぜ?」「どうして?」と尋ねる心は今も昔も変らない。当時の日本で「常識」とされたことに、梅園の「懐疑」の心は満足出来なかった。実証つまり自分の見たこと、理解しえたことのみが信じられる人、つまり近代的思惟をもった人、それが梅園だったのでなかろうか。
〈行動と実証を重んずる梅園〉
 梅園は幼少の時から、天地の成り立ちに大きな関心を抱いていた。延享2年(1745)、23歳の秋はじめて長崎方面に旅している。この時の、行動に着いての記録はないが、田口正治は「天球儀のヒントや湯若望(ドイツ人アダムシャール)の天地図や『天経惑問』など」を入手したのではないかと推察している(『三浦梅園』)。さらに、寛延3年(1750)28歳の春には 伊勢神宮 上方見物の旅をし、旅日記「東遊草」を残している。各地の名所旧跡をみて、日本の歴史や文化の現地学習を行っている。この2回の旅が、宝暦3年(1753)、梅園31歳から始められた畢生の大作「玄語」 「贅語」 「敢語」の著作活動のヒントやエネルギーとなったとは考えられないだろうか?芳賀徹は、その著『 平賀源内(ひらがげんない)』で源内の長崎遊学(宝暦2年、1752)を、当時の学者グループのなかで自ら行動した最初のものとして評価する一方、それより後の安永7年(1778)秋、56歳の三浦梅園が長男 黄鶴(こうかく) をはじめ一行12名で長崎に赴き、見聞録『帰山録』『西遊日記』を残したことを「文字通りの修学旅行」という。梅園の最初の長崎行きは源内より7年前のことだった。ライフワークを一応完成させた梅園が2度めの長崎旅行に黄鶴らを連れていったことは、当時の長崎に行くことによって得られるものの大きさを知っていたからだろう。長崎での梅園は、通詞 吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)宅を連日のように訪ね、西洋事情を学んでいる。梅園は一人で学び、両子山中を動かなかったということが強調されている。しかし、当時のレベルでみれば、彼の旅行は決して少なくない。とくに長崎に直接行き、そして自らの課題を解決するために積極的な行動をしている点について、改めて見直すことが必要ではなかろうか?梅園は、行動と実証を重んじた人だった。
〈梅園三語〉
 梅園は、宝暦3年(1753)に「玄語」を起稿した。「玄語」は、自ら理解した天地の条理を人々に知らせることを目的として書かれたもので天地の「玄」(絶対的心理)論じたものである。その「例旨」では安永4年に完成するまでの23年間、実に23回の改稿をしたという。しかし、高橋正和によれば、梅園は死の直前まで加筆訂正を続けたという(『三浦梅園の思想』)。「贅語」は、「玄語」執筆の過程で、諸説の検討 批判をまとめたもので、条理の説の体系づけには無駄なこと、「贅」というが、これにも宝暦6年から30年の年月を要し、換稿も11回という。さらに、道徳政治を実社会にいかに実践するかを説くために敢えて書いたのが「敢語」である。宝暦10年から4年かけ、4回改稿している。現在残っている「玄語」の稿本50冊の、「あるものはその当時における完本があり、あるものはほとんど原形を留めないまでに加筆訂正されており、あるものは全巻×印で 抹殺(まっさつ)され」(田口前掲著者)ているという。自らの理論を展開するのにこれほどの歳月 推敲(すいこう)を行う梅園の姿勢にはただ脱帽するほかはない。
〈条理とは?〉
 では、梅園のいう条理とは何か?多くの研究者が口をそろえて梅園の著書とくに「玄語」の難解 難読性を指摘している。島田虔次は、「玄語」読解のための参考文献として梅園自身の書いた@「玄 論」A「多賀墨卿君に答うる書」B「玄語てひき草」をあげている(日本思想大系『三浦梅園』解説)。ここでは、狭間久の理解に従ってその概要をまとめておこう(『大分県史』近世篇W)。宇宙にははじめガス状の「一元の気」が充満していた。その「気」の一部が集まって「物」となり、その他は「気」のまま残り、天地が造られたという。梅園は天地 男女 生死 禍福 陰陽などは、対=「一一」ととらえる。彼のいう「一一」は、元々同じもの(「一」)から生まれたものである。だから「一即一一」「一一即一」だという。元来1つのものが2つになり、さらに、2つは4つになる。こうした分裂の筋道が条理だと説明している。天地のすべてに条理があり、天地を知るには、その条理を知らねばならぬという。その条理を知る方法が「反観合一」だとする。「反観」とは、反して観る、つまり分れた一一を、元の一に、生まれきた筋道に従って戻ることである。その筋道、条理を知る心構えとして、主観や偏見 先入観を捨て、正しい 徴(しるし)(自然現象)に依ることが大切だと指摘している。しかし、正しい徴を知ることは非常に難しいという。たとえば、「日」に対するものは「月」ではなく「影」であり、「方」に対するのは「円」ではなく「直」だという。やはり、条理の哲学は難解である。
〈難しくない梅園〉
 梅園の著作で、古くから注目されているものに「 価原 」がある。「価原」は弟子 上田養伯 の物価問題の問いに答えた経済論である。この中に、貨幣論があり、「悪幣盛ンニ世ニ行ハルレバ精金皆隠ル」という指摘が、グレシャムの「悪貨は良貨を駆逐す」という法則と一致することから経済学から注目を集めている。財政難に悩む杵築藩主 松平 親賢(ちかたか) のために書かれた建言書「 丙午封事(へいごふうじ) 」とともに、現実政治への発言である。このほか、教訓啓蒙書である「養生訓」「鉄漿訓」、在所冨永村民の相互扶助ために考えられ、明治以降も続けられた慈悲無尽のための「慈悲無尽興行旨趣並規則」など短編を収録した『梅園拾葉』『梅園後拾葉』『梅園拾英』などの著作は比較的読みやすいものである。私たちは、今後こうした著作を手掛かりに、人間「梅園」に接近してみたいと思う。
〈現代に生きる梅園〉
 小川晴久は、梅園の日本の歴史における存在意義について@自力で哲学の精神を切り拓いたこと、A 強靱(きょうじん)な論理的思考を持っていたこと、B弁証法的論理を発見し、活用したこと、C中国古典を批判的に摂取しながら自己の学問体系に集大成したことをあげている。さらに、梅園の思想は、@自然と人間の共生、A自然をふくめた他者の発見、B欲望と感情のコントロールを提唱していることによって、現代の要請に応えてくれ、「20世紀、否21世紀の哲学として 甦(よみが)」えると述べている。(『三浦梅園の世界』)。小川は、梅園哲学の批判点を指摘しつつも、自然と人間と社会のすべてが考察され、「天(自然)を師とし人を友とする梅園の認識態度」学び、梅園を終生心の友とすることを提唱している。
 参考文献 『梅園全集』上 下巻
[豊田 寛三]

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