駅 ( えき)

古代国家の交通体系

 古代、役人の旅行用に、官道ぞいにおかれた施設。
〈旅人の使えない駅〉
 旅もその目的によってさまざまであるが、心のゆとりと出会いの楽しみを求める旅ができるようになったのは、日本の歴史では比較的最近のことである。古代の庶民にとっての旅の多くは、国家に命令された苦痛であり、やむを得ないものでしかなかった。「 少女(おとめ)らが 放(はな)りの髪を 木綿(ゆふ)の山 雲なたなびき 家のあたり見ゆ」(『 万葉集 』)という歌は、駆り出されて行く、未知の旅の安全を祈る、不安の歌である。彼ら、 大宰府 へ調 庸(税)を運ぶ豊後の農民には、旅の仮寝をする施設すらなく、山野に夜を過ごさなければならなかったのである。古代の各地におかれていた、駅という馬を常備し宿泊もできる施設は、このような国の物資を運ぶ、なかば公的な旅にも開放されなかったのである。駅は、国家の役人が公的な旅の際に、食糧 交通手段を調達し宿泊をする施設であり、国家の意志を諸国に伝えるための通信施設であった。このような施設は、全国が統一され、国家のすべての権限を中央の政府が独占するような政治体制とともに整備されるものである。したがってこれらの駅が、全国に設置されるのは、日本最初の中央集権国家体制である律令体制が成立する、7世紀の後半であった。
〈豊後におかれた駅〉
 『 養老令 』のきまりによれば、駅は30里(1里は約534m)ごとにおくことになっていたが、これは一応の目安であり、地形や水などの条件に左右されたようである。『 豊後国風土記 』は、豊後国には9つの駅が、日田 球珠(くす) 直入 海部 大分郡にそれぞれひとつ、大野 速見郡にそれぞれ二つ設置されていたと記している。『豊後国風土記』では各郡の駅家名(駅名)はわからないが、『 延喜式(えんぎしき) 』には、豊後国駅馬として、「小野十疋。荒田。石井。直入。三重。 丹生(にゅう)。 高坂(たかさか)。長湯。由布各五疋」が記載されている。『豊後国風土記』と『延喜式』の数が一致するので、『延喜式』の諸駅のうち、 小野駅 は宇目町小野市、 荒田駅 は玖珠または九重町、 石井駅 は日田市石井、 直入駅 は竹田市または久住町、 三重駅 は三重町市場、 丹生駅 は大分市松岡または佐野または臼杵市、 高坂駅 は大分市上野丘東町、 長湯駅 は別府市南町または亀川古市、 由布駅 は湯布院町川上または佐土原にあったと推定されている。大分県域にはこれ以外に、豊前国の下毛 宇佐 安覆(あしぶ)駅がふくまれ、それぞれ中津市高瀬または 合馬(おうま)、宇佐市 駅館(やっかん)、 安心院(あじむ)町 木裳(きのも)にあったと考えられている。
〈駅と駅をつなぐもの〉
 このように、推定地が複数あるということは、駅と駅を結ぶ道、いわゆる 官道(かんどう) (駅路)の推定ルートが大きく異なってくることになる。そこで近年では、この駅の推定地を考えるとともに、古代の官道を復元的にとらえなおそうという研究が盛んになっている。人の行くところに道はできる、と一般にいわれるが、官道は自然発生的にできただけではない特徴をもっていると考えられ、その特徴に注目しながら、官道を想定し、その結節点として駅家を考えようというのである。つまり官道は当時の政府が、都と大宰府、大宰府と各国の 国衙(こくが) 、さらに国衙どうしを最短距離で結び、政策をスムーズに浸透させ、諸国からの税を確実に都や大宰府に運ばせるために整備した道である。したがって、自然発生的な道を前提にしても、平野部ではできるだけ直線的に拡幅したり、平野部の少々の台地は切り通しなどを造って、できるだけ最短のルートを通っている可能性が高いのである。そこで、古い直線的な道路を、空中写真や地形図 地籍図などをもとに捜していく作業が行われているのである。こうした研究の結果、平野部の官道は、直線的であることから、 条里 地割りと重なることが多いこと、大字 市町村など行政的な境になっていることが多いこと、山野部では尾根づたいに整備され、切通などもみられることなどが明らかにされている。またこれらの官道は、近世まで各地の主要道路として利用され、周囲に 車路(くるまみち) 車返しなどの車地名、大道 縄手(なわて)などの地名が残っていることなどが指摘されている。また駅に関連するマゴメ 立石 清水などの地名も、周辺に残っていることなどが指摘されている。このような官道の研究を裏付けるように、吉野ヶ里遺跡などで、側溝をともなった幅8mの道路が検出されている。
〈駅を支える人々〉
 駅は、農民には閉ざされた施設であるが、駅維持のために農民を駅戸とし、駅の馬の世話や駅館の維持 清掃などが命じられた。駅戸の成年男子は駅子といわれ、飼育している駅馬をひいて駅に勤務し、隣の駅まで役人の送迎にあたらなければならなかった。また駅を維持するために設置された駅田の耕作や、駅稲という 出挙(すいこ) の貸し付けに応じることなども義務づけられていた。
[西別府 元日]

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