箕浦勝人 ( みのうらかつんど)
大分県「同志会」派の総帥
1854−1929 新聞人 政治家。青洲。臼杵藩上士 実相寺(じっそうじ)愚山 の二男として安政元年2月出生。
〈自由民権家としての登場〉
明治元年(1868) 臼杵藩 家老 箕浦又生 に請われてその養嗣となり、翌年藩命により佐伯の 秋月橘門(あきづききつもん) に学び、ついで肥後の自修館、肥前の草場船山についたが、同4年、 荘田(しょうだ)平五郎 に伴われて上京し 慶応義塾 に入った。在学中から『 郵便報知新聞 』に投書していたが、一つには学資稼ぎのためだったという。卒業した明治8年、『郵便報知新聞』主筆に迎えられた佐伯出身の塾先輩 藤田茂吉 とともに同社に入り論説を担当した。やがて 矢野文雄 も加わり、この三人で同紙を舞台にさかんに 自由民権 の論陣を張った。同紙連載の「議会論」がこの期の箕浦の代表的な文章である。しかし同8年、新聞紙条例による言論弾圧が始まると、末広鉄腸らに続いて藤田が、翌年には植木 枝盛(えもり)らに続いて箕浦もまた禁獄2か月の刑を受けた。出獄後、箕浦は福沢の『民間雑誌』に入り、『家庭叢談』と改題して編集にあたった。明治10年、西郷軍侵入後の臼杵に帰り、このとき箕浦又生の娘不二子と結婚した。ついで宮城師範学校に招かれ、同12年には仙台師範学校と改称した同校の校長となった。この間鶴鳴社という政談結社を興したりしていたが、まもなく帰京して再び『郵便報知』に入り、同年、福沢起草になる「国会論」を藤田と連名で同紙上に連載した。翌13年、中津出身の塾先輩 甲斐織衛 の要請で兵庫商業講習所に赴き、やがて同校と岡山に開いた講習所の所長を兼ねた。この間、兵庫国憲法研究会に加わり、修正委員として私擬憲法『国憲私考』の 編纂(へんさん)に参画した。翌14年、『大阪日報』を友人らと買いとり、また荘田平五郎らと明治生命保険会社を創設してその大阪支店支配人となった。しかし政論への意志はやみ難かったらしく、これを辞して、尾崎行雄の後を襲って民権派『新潟新聞』の主筆となった。
〈政界への進出と業績〉
明治14年、国会開設の詔発表と同時に有名な「 明治十四の改変 」で大隈重信と共に矢野や尾崎ら三田派が政府を追われると、箕浦 藤田は、矢野や馬場辰猪らと共に翌15年、大隈を総理とする 立憲改進党 を結成した。同年、東京府会議員にも選ばれ、こうして政治家箕浦勝人が誕生した。しかし政府の民権運動に対する弾圧はきびしく、明治17年に板垣退助総理の自由党は解党、立憲改進党も総理大隈や副総理河野 敏鎌(とがま)らが脱党した。この危機にあたって、外遊中の矢野にかわって奮闘し、同党を明治23年の国会開設の日まで支えたのが箕浦と藤田であった。明治23年の第1回衆議院選挙に、郷党に推されて大分県から出馬、当選し、以来15回の連続当選という記録を作った。この間、明治26年の 松隈(しょうわい)内閣で農商務局長、同31年の 隈板(わいはん)憲政党内閣で逓信次官、同37年には衆院副議長、大正4年(1916)、大隈改造内閣で逓信大臣などを歴任した。議会人としての箕浦の業績として忘れてならないものは、第1議会に議員提案した「新聞紙法案」以来執念を燃やした新聞紙条例改正を目ざす活動である。第5議会を除く毎議会ごとに提案をくり返した箕浦案の核は政府による新聞発行停止の規定の削除にあった。そしてようやく第10議会においてこの削除が可決され、明治33年3月に公布されたのである。
〈民権運動以来の党人としての軌跡〉
立憲改進党創立以来の党人としての箕浦は、進歩党―憲政党―憲政本党―国民党と展開する系譜の中で、民権運動以来の名声を担う 領袖(りょうしゅう)であり続けた。したがってまた、大分県においてはいわゆる「 同志会 」派の総帥であり続けた。しかし明治末年の国民党の犬養 反犬養の内紛では大石正巳 武富時敏ら民権運動以来の名士たちと共に、反藩閥の姿勢を崩さない犬養に対する反対派に廻った。その延長線上に 大正政変 と 護憲運動 に際しての彼らの国民党脱党と藩閥桂太郎内閣支持があり、世の批判を浴びることになった。その後は、加藤高明の 立憲同志会 、ついで 憲政会 に属し、大分県「同志会」派総帥として、同じ臼杵出身の政友会領袖 山本達雄 との、臼杵駅と(上)臼杵駅をめぐる対抗は有名である。大正末年の清浦内閣の出現に際しては、山本らの 政友本党 に対抗する護憲運動に参加した。その結果成立した加藤内閣が首相の死によって 若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣となる大正15年初め、大阪の松島遊廓移転問題にからむ贈収賄事件が発覚し、箕浦が起訴された。若槻首相の証言を偽証として箕浦が告訴するということもあったが、民権運動以来の名声を失ったこの老政治家が議員の職を辞したのは、一つの節の通し方であった。無罪判決の出た昭和3年の8月、 脳溢血(のういっけつ)で倒れ、同月30日逝去。享年76歳。
[野田 秋生]
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