無産運動 ( むさんうんどう)

無産者の夜明けは遠く

 財産を持たない者=労働者 農民の利益を代表するとされた無産政党によって推進された社会主義的ないしは社会民主主義的な政治、社会運動をさす。古くは明治時代の社会民主党などの運動があるが、本格的に展開するのは大正14年(1925)の 普通選挙 法制定以後である。憲官の厳しい取締りの中で衆議院にも進出し、また労働 農民運動とも結合して一定の影響力を維持したが、全体としては誕生した政党が離合集散をくり返し、また最後に残った社会大衆党も軍部に接近し昭和15年 近衛(このえ)内閣の新体制運動の前に進んで党を解散し無産運動は終止符を打つ。
〈無産大衆党大分支部の結成〉
 県下における無産運動の始まりは、昭和2年(1927)10月ころ 江上勇三郎 が東京より帰り、大分駅前に赤本屋を開店し政治研究会を組織したことに始まると伝えられる(『労政時報』第3号)。この前々年の大正14年には 大正デモクラシー を象徴する普通選挙法が成立し、25才以上の男子に選挙権が与えられたが、これを契機に議会主義を標榜する無産政党が次つぎと結成され、その波が大分にも及んだのである。江上の結成した政治研究会は昭和3年8月に解散させられたが、9月には 大分市政革新同盟 として再生し更に4年12月にはこれを母体として県下初の無産政党組織である 無産大衆党大分支部 が結成された。普選実現当時結成された無産政党の全国組織には左派に 労働農民党 、中間派に 日本労農党 、右派に社会民衆があった。前出の無産大衆党は左派の労働農民党が昭和3年4月結党禁止になった際、大山郁夫らとたもとを分った鈴木茂三郎らが結成したもので大分支部の役員は次のようであった。支部長 今村騎熊 、書記長 首藤克人 、委員には 秋田楢次郎 が就任、またこの時別府町においても 菊池武 、 岡本完平 、 奥之山敬亮 らにより支部が結成されている(『 大分合同新聞 』)。
〈大分市に初の無産市議〉
 この年の12月には無産大衆党が大分県出身の 麻生久 の属する日本労農党と合併して 日本大衆党 (執行委員長麻生久)となったので、県のメンバーもそれにしたがった。昭和4年12月日本大衆党の演説会が麻生、浅沼稲次郎、水谷長三郎、浅原健三らを迎えて開かれ、これを機に日本大衆党大分支部が結成された。翌5年の大分市議会選挙では、支部から 甲斐重喜 が立候補して当選し、大分における初の無産議院誕生を見た(同前)。
〈大衆党と労働争議〉
 日本大衆党は5年7月、他の中間政党と合併して全国大衆党となり麻生が中央委員会議長に就任した。県内でも同12月全国大衆党大分支部連合会組織準備会が別府支部で開かれ、大分 津久見 宇佐 竹田 別府の五支部をもって県連を設立することが決められた。執行委員長に 平戸哲三 、書記長に甲斐重喜が就任し 労働組合 の活動強化に取りくむことが決められた(『社会運動通信』)。大衆党のかかわった 労働争議 は幾つかあるが、5年10月の 大分セメント津久見工場 の争議(津久見支部長 佐脇篤夫 逮捕)、6年4月及び6月の 富士紡大分工場 の争議(甲斐重喜 小出慶治 今村騎熊逮捕)、10年11月の 出水製糸大分工場 、11年3月の 大分製紙工場 の争議などが有名である。また労働争議とは異なるが、7年の 竹田水電争議 も大衆党が活躍した代表的な事件であった。この後全国大衆党大分県連は、本党が全国労農大衆党(6年)、社会大衆党(7年)と組織再編したのにともないこれと歩みを同じくしたが、本党は反共、反資本、反ファシズムを標榜したものの 満州事変 、5 15事件、2 26事件を経て軍部独裁が確立するようになると急速にこれに接近した。
〈日中戦争と無産政党〉
 このような中で12年5月1日に衆議院議員選挙が実施されたが、大衆党は全国で36議席を獲得して議席を倍増し、時局に不安を抱く国民の期待に応じたが、県下においても1区に大分から菊池武が立候補し8位で落選したものの3,657票を集めて気を吐いた。しかし大衆党はこの年7月 蘆溝橋(ろこうきょう)事件を契機として 日中戦争 が始まると戦争に協力する姿勢を明らかにした。他方この年の12月には、無産勢力左派を結集した日本無産政党やその影響下の日本労働組合全国協議会など反ファシズム勢力に対する一斉検挙が行われた。これが 人民戦線事件 で県下でも犠牲者が出たが、これを境に軍部独裁に対する組織的な抵抗運動は終りを告げた。他方大衆党は唯一残された最大の無産政党となったが、15年の近衛の新体制運動にいち早く対応し、全政党勢力を結集した 大政翼賛会 の結成にあたっては他党に先がけて党を解散し、 ファシズム (軍部独裁)の一端を担った。 太平洋戦争 が始まるのは、翌昭和16年12月8日のことである。
[三重野 勝人]

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