蓮城 ( れんじょう)
真名野長者と石仏と
生没年不詳。古代の僧。 国東半島 を中心とした 仁聞菩薩(にんもんぼさつ) 、大野川流域を中心とした 日羅(にちら) と並んで、海部郡から大野郡の一部にかけて寺院の開基、磨崖仏の作者と言い伝えられている伝説上の人物。蓮城についての記録のほとんどが江戸時代に記されたもので、それによると次のようになる。「唐の蓮城法師(享保11年<1726>『 有智山(うちやま)略縁起 』)」 「 百済(くだら)国の人、 少(わかく)して隋国に遊び、業を南嶽恵思大師に服す云々(延享元年<1744>『 豊鐘善鳴録(ほうしょうぜんめいろく) 』)」。いずれも渡来僧として記されているが、史料が乏しく伝承の域を出ない。しかし蓮城開基伝承を伝えると思われる史料がわずかではある。 内山 蓮城寺(れんじょうじ) (三重町)関係の史料である。平安時代末から鎌倉 南北朝時代を通じての史料であるが、これに出てくる寺号の変遷をみてみると次表のようになる。このうち元徳3年の史料には「爰に彼の寺は、日羅上人建立したる往古の寺なり」とある。この時期まで同寺は日羅開基伝承の寺であったといえよう。ただし弘安3年には「内山蓮城寺」の寺号を用いているところからみると、このころから蓮城開基伝承も浸透していたとも考えられる。すなわち鎌倉時代には、蓮城が古代寺院を開基したという伝承がある程度広まっていたということになるのである。なお元弘3年に 内山寺 が蓮城寺とかわった点については、それまで北条氏と関係の深かった内山寺が、 後醍醐(ごだいご)天皇の北条政権打倒の際に 没官(もっかん)されたので、北条氏との関係をはばかって 蓮城寺 と切りかえたのではないかともいう(橋本操六「炭焼小五郎の史実と伝説」 『臼杵石仏地域の民俗』所収)。
〈真名野長者伝説〉
蓮城の伝承と切りはなすことのできないものに、 真名野長者伝説 がある。全国的に分布している 炭焼長者譚 のもとになったともいわれる伝説で、古くは室町時代に記された幸若舞の「 烏帽子(えぼし)折」の中にも「つくし豊後の国内山といふ所に長者一人有」「まのどのとこそ申けれ」と出てくる。現在まで伝えられている話の骨子は「豊後三重に住む炭焼小五郎のもとに、都から1人の姫がやって来て小五郎と結婚する。その後姫の教えで黄金を入手した小五郎は長者となる」といったものである。『豊鐘善鳴録』によると、後に真名野長者とよばれるようになった小五郎は中国天台山に金三万両を寄進する、恵思大師はそのお礼として、蓮城法師に仏像を持たせ長者のもとに遣わす、長者は蓮城のために一宇を建立し“有智山精舎”と名付けたとある。さらに海部郡深田荘に祇陀 療病 施薬 安養 快楽の5院を創立し 紫雲山 満月寺(まんがつじ) と称したとも記している。また文政12年(1829)写本の「真名長者実記」には石仏造立の記載がみられる。同記に「長者夫婦蓮城法師三人 ノ 姿 ヲ 石 ニ 移 テ 同后代 ニ 可残也」とあるが、現在 満月寺 境内に長者夫婦 蓮城法師と伝えられる石像が安置されている。以上が真名長者および長者と蓮城とのかかわりに関する伝説であるが、これら伝説が成立する背景には寺院建立、石仏造立のための発願者の実態を十分に考慮せねばならない。 豊後 大神(おおが)系 臼杵氏 の存在である。
〈臼杵石仏の造立者〉
平安時代後期から鎌倉時代にかけて造立されたといわれる 臼杵石仏 の発願者を、真名野長者(炭焼小五郎)なる人物にあてると考えた場合、これだけの石仏を造立した財源は何かということになる。柳田国男は炭が一般の民衆に用いられるようになったのはごく新しいことで、古くは「尋常ならざる需要があった(「炭焼小五郎が事」)」としている。すなわち鉱石の製錬などに用いるということである。古代 丹生(にゅう)郷 (大分市坂ノ市付近から臼杵市付近)からは、地名で推察できるように 辰砂(しんしゃ)(水銀製造の主要鉱石)が採れていた。その辰砂を熱して水銀を得るが、その燃料が炭であったとすると、真名野長者は鉱石の採鉱 冶金という特殊な技能を有する人物ということになる。いずれにせよ、臼杵深田近辺には採鉱 冶金を業とする集団の存在がうかがえよう。真名野長者はあくまでも伝説上の人物であるが、平安時代末にこの地で権力を握っていたのは、豊後大神系臼杵氏であり石仏の発願者でもあると考えられる。豊後大神一族の経済力は、銅 鉄などの採鉱 冶金によるという考え方もあり、真名野長者伝説は、臼杵石仏発願主豊後大神系臼杵氏から発生したともいえるのである。また渡来僧蓮城の伝承は、石仏造立のため中央から来た僧にからめて作られた可能性もある。
参考文献 『臼杵市史』上巻
[小泊 立矢]
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