近現代 ( きんげんだい)
近現代 概観
〈版籍奉還から廃藩置県へ〉
慶応4年(1868)正月14日、幕府の 四日市陣屋 を「 花山院隊(かざんたいたい)」と称する60余名が襲撃、15日早朝、 御許山(おもとさん) に錦旗を立てた。勤王派 公卿(くぎょう)花山院 家理(いえのり)を盟主に九州で倒幕の兵を挙げた 草莽隊(そうもうたい) であった。挙兵の報に諸藩も対応に苦しみ、 西国(さいごく)筋郡代 窪田治部右衛門(くぼたじぶ えもん) は肥後へ逃亡した。 御許山騒動 は後楯を期待していた山口藩からもおさえられて失敗した。窪田の逃亡で混乱している旧西国郡代支配地域は、同年 閏(うるう)4月27日に 日田県 となった。 松方 正義(まさよし) が 日田県知事 として6月に着任し、明治3年(1870)まで積極的な殖産興業政策、全国初の 養育館 事業などすぐれた業績をあげた。
いずれの藩も大政奉還 王政復古の大号令以後も朝廷の集合令には消極的で、諸藩の動静を見ながら登京する状況であったが、 戊辰戦争 以後一変した。明治2年6月の 版籍奉還 により旧藩主は 知藩事 となり、 藩制改革 に着手した。諸藩の対応は必ずしも一致せず、同3年には4次にわたって 豊後藩県会議 を開き、激動に対処せんとした。この時期 農民運動 も頻発した。気候不順による全国的な 飢饉(ききん) と、諸藩県による 税制改革 の進行が原因と思われるが、2年の 岡藩 、3年の日田県をはじめ、世直しの波は県内各郡に及んでいる。
〈大分県の成立と新県政〉
明治4年(1871)11月14日、豊後国は 大分県 (8郡17町1,801村)、豊前国は 小倉県 となり、大分県長官として、 森下 景端(かげなお) が参事に任命された。5年3月、 大区 小区制 (8大区159小区)が施行され、6月大区会所を設置し、大区区長(権区長)−小区戸長 副戸長−町村保長を通しての県民統治が始まった。6年3月には大区区長制を廃止して、 会所(かいしょ) を閉鎖、小区に用務所を置いて 県庁 と直結させた。このような行政機構の中で、戸籍編成、徴兵令施行、地券交付などの明治政府の緊急な政策が進められた。反面5年12月、大分郡などの 県中四郡一揆 が起こるなど、森下県政にとって厳しい対応も迫られた。8年3月、小区の区画を再編成して町村の統廃合を行い(160小区8町792村)、9年8月には、下毛 宇佐2郡が大分県に編入された。そして10年2月に始まる 西南戦争 で、県下は敗走する薩軍の侵入により戦場となる県中 県南も含めて、甚大な影響を受ける。
〈初期県会と地方自治制度の確立〉
明治7年(1874)、 共憂(きょうゆう)社 を結成して、土佐の立志社に近づき、『 田舎新聞 』の編集長として論陣を展開した 増田宋太郎 が、 西南戦争 で 中津隊 を結成して 蜂起(ほうき)、10年4月には 県庁 を襲撃して退却、さらに薩軍に投じた。これに関連して起こる 県北四郡一揆 で、 戸長 層の居宅や用務所を襲撃した農民層の行動は押さえられたが、8年に結成された 宇佐郡民会 や 中津公会 の 戸長民選運動 もあり、この地域から県下の 自由民権運動 が 勃興(ぼっこう)する。11年7月、 大分県民会 が開かれたのを機に、中津町の 亦一(えきいつ)社 など県下各地に政談結社が作られた。しかし、同年11月 郡区町村編制法 が施行され、 大区 小区制 を廃止して、郡 町村の行政区画が復活、国東 海部は東西 南北に2分、12郡9町1,128村となり、郡長と町村または数町村に戸長を置くことができるとされ、戸長は公選とされた。また 府県会規則 によって、12年3月、第1回通常 県会 が大分町で開催された(同年4月、 大分県町村会規則 も制定される)。 地方税 規則を含めた 三新法 の施行で、国政と地方行政の区分が明確にされ、地方自治の出発点となった。
12年10月任命された 西村 亮吉(りょうきち) 県令 (19年より 知事 )は、徹底的に政党や機関紙を弾圧、初期県会は 松方デフレ 政策下で、予算案削減を中心に展開された。この時期 福沢諭吉 系の 交詢(こうじゅん)社 などが活動し、15年5月、 豊州立憲改進党 が結成されたが、17年2月には解散した。全国的な自由民権運動への弾圧と懐柔策は、県内にも影響し、19年ごろは知事と県会の対立もなくなっていたが、20年の 大同団結運動 の高まりの中で、21年ごろには、 豊州立憲改進党 が再興されて、対立が激化、22年11月には 西村知事不信任 も県会で決議された。松方デフレ政策下の厳しい不況は農民の没落をもたらし、また町村の行政コスト引き下げの合併も進行、22年4月、県下に 町村制 が施行された時点で14町265村となり、戸長に代わり 町村長 が置かれた。大分県は24年4月に 郡制 、8月に 府県制 を施行した。
〈明治10年代の金融と産業〉
明治10年(1877)11月、大分町に 第二十三国立銀行 が県下で最初の銀行として設立された。11年 第七十八銀行 (中津)、12年 第百九国立銀行 (佐伯)がつくられたころは、西南戦争に伴う不換紙幣の乱発、 金禄(きんろく)公債 や 士族授産 金の下付などで経済界は活況を呈した。しかし松方デフレ政策は、15年以後県下にも厳しい不況をもたらしたが、第二十三国立銀行は公金取扱いの特権などで切り抜け、21年から県内に支店や出張所を拡げ、発券特権の取消された30年5月、 普通銀行 に改組の上株式会社 二十三銀行 として再出発した。
明治6年、熊本藩 養蚕試験所 (鶴崎)を県が引き継ぎ、さらに生徒の中から先進地で学ばせ、大分町で 製糸 養蚕の伝習を始めた。14年には幾つかの 士族授産 による製糸 養蚕会社が設立された。当時県の特産物には 七島莚(しっとうむしろ) ( 青莚(せいえん) ) 煙草 菜種 蝋があり、銅 金 石灰 硫黄 明礬(みょうばん) の鉱産物もあった。部門別生産価額では、11年で農産物が97%を占めていた。しかし16年の 米価 下落に加え、酒造税の引き上げもあり、農家は深刻な打撃を受けて 小作農 に転落するものが増加した。
〈文明開化と近代教育の出発〉
大分県の近代化に、思想面で大きな影響を与えたのは、 福沢諭吉 である。『 学問のすすめ 』などの著書による感化はもちろん、彼のもとに集まって 慶応義塾 に学んだ県出身者の活躍は広く近代日本の形成に貢献している。 矢野文雄 箕浦勝人(みのうらかつんど) らは民権運動に論陣を張り、政党人 言論人として活躍した。さらに 中上川(なかかみがわ)彦次郎 荘田(しょうだ)平五郎 らは実業界、 小幡篤次郎(おばたとくじろう) は4年創立の 中津市学校 長として、郷里に 文明開化 の灯をともした。また福沢門下の 山口 半七(はんしち) は 豊州立憲改進党 の結成、 県会議員 、さらに 豊中製糸 、 中津紡績 の創立など県下の政財界に貢献した。
明治5年(1872)、 森下景端 が大分県 教育 振興のために福沢の意見を聞き、「 さとしの文 」という教育の周知徹底を目的とする布告文を出した。そして県は 大分小校 を本校とし分校を11地区に設置したが、同年8月発布された「学制」のために7年1月廃止された。同年11月、「 大分県各小学規則 」が制定され、県下に小学校が設立された。しかし学校の維持費は地域負担で、地価戸数割や寄付のほか、授業料の負担もあって、就学率は10年で38%であった。19年の「学校令」で義務化された27年でも、54.5%しかなかった。
6年『 大分一週新聞 』が大分町で発行されたのを始めとして、9年中津町で『 田舎新聞 』が5か年にわたって週1回発行され続けた。12年には大分町で『 南豊新聞 』が創刊され、民権論の中心として論陣を張った。豊州立憲改進党が結成されると、その機関紙的な役目を果たしたが、 西村亮吉 県令 の弾圧で16年廃刊となった。16年『 大分新報 』が発刊され、西村県令ら官権派の機関紙として、19年に『 豊州新報 』と改称した。22年には『南豊新聞』の流れをくむ『 大分新聞 』が誕生、再興された豊州立憲改進党の機関紙となるが、両紙は大分県の代表的新聞として地方政治や文化の発展に貢献する。
〈日清 日露戦争と大分県〉
明治27年(1894)8月、 日清戦争 が始まると、大分県関係者の入隊している 第6師団第13連隊(熊本) 第14連隊(小倉) も出動を命じられた。さらに予備役 後備役も召集され、県下から戦死 戦病死者も181名を出し、町村役場も応召者や遺家族の対応に追われた。戦後の軍備拡張計画の中で、29年小倉( 北方(きたがた))に 第47連隊 が新設され、県関係者は第14連隊と第47連隊に入隊することになった。
37年2月11日、対露宣戦布告が出されると、両連隊とも満州に向かった。沙河 奉天の会戦などに加わり、 日露戦争 を通じて1,066人の尊い命が失われた。 旅順口閉塞(りょじゅんぐちへいそく)で指揮をとった 広瀬武夫 も、「軍神」として国民の志気を高揚させた。37年2月の臨時 県会 で、 大久保利武 知事 は、戦時財政の上から予算緊縮を強調して11万6千円余の削減を可決した。一方戦時記念として各地で植林も行われ、基本財産の増額も企図されている。また戦後の師団増設計画の中で、大分町に 歩兵第72連隊 の誘致に成功、40年12月、小倉の両連隊に分駐して発足した新しい連隊は、41年7月、新築の兵舎に移駐、郷土部隊が誕生した。
〈町村合併と地方改良運動〉
明治23年(1890)7月、第1回の 衆議院議員 の総選挙が行われた。県下は6区(定員各1名)に分けられ、 豊州立憲改進党 と 豊州会 が対立したが、内務大臣や知事による激しい選挙干渉も行われた。このような中で、中央でも活躍する 箕浦勝人 (改進党)や 元田肇(もとだはじめ) (豊州会)も当選した。県会も 大分県同志会 (改進派)と豊州会の対立が激しく 県道 の起債問題や中学校分校問題などで論戦が展開された。31年には改進派の流れをくむ 憲政本党大分県支部 が、さらに39年には豊州会の系統の 政友会大分県支部 が成立した。政党化の動向は帝国議会−県会−郡会−町村会と結ばれて、町村の政治にも強く影響して来る。
30年ごろの県内の人口は、各郡とも郡の中心部(多くは旧城下町)に集中する傾向がみられ、特に中津 大分 臼杵の各町が上位を占めていた。産業構造の変化などもあり、 過疎 化していく町村状況は、日清 日露戦後の増税策をとる政府にとって重要な問題で、戦時負担に耐えうる町村自治の確立は急務であった。県内でも国税滞納者で財産差押人員が、33年の266人から36年には2,268人と激増している。40年、政府は経済力が弱くて法律上の負担に耐えず、独立自治の実をあげ得ない町村の合併を府県に示し、県下でも交通機関の発達や社会経済の変遷に伴い町村区域の拡張を必要とする 町村合併 を推進した。優秀な吏員や議員の確保と、事務費の節減、住民の負担軽減が期待されたのである。県都大分町も40年に西大分町などを合併、41年の連隊創設などで、44年4月、県下で初の 市制 を施行した。33年には、九州で最初の電車が別府町との間で運転開始、44年には大分まで 鉄道 が延長され( 豊州線 =現 日豊本線 )、 新大分港 を県営事業として起工、大正4年(1915)完工する。また45年には、九州最大の紡績工場となる 大分紡績会社 も創設された。
大分県は、36年に 模範町村規程 を制定した。行財政事務の整理、施設 事業の発達が顕著で他町村の模範となる町村を指定するもので、政府も模範的町村治として、納税準備 基本財産の造成 部落有林野の統一などを奨励した。41年には戊申詔書が出され、国民思想の作興と風紀の矯正が諭され、これを契機に 地方改良運動 が推進された。 郡是(ぐんぜ) 町村是 の 編纂(へんさん)を命じたのもその一環であり、町村財政の基礎を確立させようとした。42年には、県も10年後を目標とする「農事奨励ニ関スル施設計画」を作成している。
〈地主制の展開と農林水産業〉
明治16年(1883)、県の小作地率が26.6%であったのが、25年に39%になっていることは、 地主 化の急速な進行を示している。小作料率も、地主の税負担の増加や諸物価の値上がりなどで引き上げられていく。 松方デフレ 期に土地を集積した大地主が、20年代前半の 町村制 郡制 施行で政治的発言権を得、後半は小銀行の設立を機に金融資本ともかかわりを持ちながら 寄生地主制 へ発展する。特に34年から始まった県の 米穀検査 制度が、大分米の評価を高めて地主制にも大きな影響を与えた。しかし県財政の上では、地租の占める割合が、30年の93.5%から44年には49.7%に減少している。諸産業の発達の結果である。
農業の中核は水稲で、 井堰(いせき)や水路の開さくは重要課題であった。大分郡谷村から6か村を経て明治村に至る 明治大分水路 は、明治期を代表する水利事業で、30年にとりかかり33年完了している。また湿田の乾田化などの耕地改良、千町無田の開拓も始められた。 日清戦争 後、軍馬育成も奨励され、39年には久住町に 種畜場 が開設されて、牛馬の種付け、飼料作物の栽培など大分県の畜産に大きな役割を果たした。林産物では木材についで木炭の需要が増加、品質向上のために検査制をとり入れた。大野 玖珠 日田 南海部郡が主要な産地で、「 豊後なば山師 」といわれる 椎茸 づくりの人々も 炭焼き 兼業者であった。
水産業の振興をはかるために、県は33年に 水産試験場 を設立、漁法 漁具の改良、養殖水産加工などの指導を行った。また28年、 大分県遠航漁業組合 が結成されている。
〈地場産業の発達と金融機関〉
大分県の産業別生産価額総額は、明治25年(1892)に比して、43年は3.4倍に伸び、部門別では農産物が1位であるが、工産物の伸びが著しく、農業中心ではあるが徐々に工業化社会に向かっている。29年の 豊中製糸会社 と 中津紡績株式会社 の設立(31年操業)、35年 鐘紡(かねぼう)中津工場 、45年の 大分紡績株式会社 の設立も、従来の農家の副業や家内工業 マニュファクチュア段階から近代工業へ脱皮したことになる。33年の 竹田水力電気株式会社 、34年 日田水電株式会社 の営業開始も動力源としての電力の需要に応じたものである。
30年に株式会社に転換した 二十三銀行 は、43年には資本金240万円の県下最大の銀行となった。一方26年施行の銀行条例で、 大分銀行 など幾つかの 私立銀行 も出来た。株式会社大分銀行は県内各地に支店や出張所を置いて成長した。30年の貯蓄銀行条例施行に伴い、 大分貯蓄銀行 をはじめ各地に作られ、庶民金融機関として発展した。また31年、 大分県農工銀行 が開業した。長期低利融資を必要とする農 工業にとった果たした役割は大きい。
〈商品流通と交通の発達〉
県下の商品 移出入 総額は順調に伸び、23年から日清戦後3倍、日露戦後4.4倍、大正2年(1913)7.5倍に達している。海路がほとんどであるが、 鉄道 の延長などもあって、陸路も増加して来る。米 材木 青莚 などが移出品の上位で、移入品には 煙草 、清酒や織物類 工業製品などがある。なお日田は 三隈(みくま)川 の水運を利用し、 日田杉 などを集散している。
30年に 豊州鉄道 が 長洲(ながす)まで開通したことにより、後背町村の物資輸送のための道路整備と県費支弁道への編入建議も 県会 でとり上げられている。大正期に入ると鉄道は、大分を中心に佐伯まで延長され、 犬飼線 や 私鉄 の 耶馬渓(やばけい)鉄道 などの営業も始まる。県下は中津から 国東半島 別府湾 岸 県南と良港を持ち、各地の物資の集散に恵まれているが、 大阪商船 による豪華客船 紅丸(くれないまる) の就航などで、別府−大阪間を主とする 瀬戸内海航路 も発達した。関西と九州を結ぶ玄関口として 温泉 地別府が急速に発展する。
〈学校教育と通俗教育〉
大分中学校 は明治18年(1885)開校するが、分校が中津などに置かれ、やがて独立して行く。女子の中等 教育 施設では、33年に 大分県高等女学校 が発足したほか、43年以後各地に 実科高等女学校 も設立されて、義務教育の普及に対応した。一方実業教育も産業界の構造変化に対応して26年の 臼杵農学校 を始め、28年以降 実業補習学校 の設立が続いた。また34年以降は農業 工業などの実業系の学校が県立あるいは郡立で創設された。40年には 女子師範学校 が設立され、7年開校の 大分師範学校 とともに本県教員養成の中心校となった。
通俗教育といわれた社会教育を推進したのに、18年設立の 大分県共立教育会 の活動がある。師範学校卒業生を中心にして発足、やがて郡教育会を下部組織として県下の 教育会 をまとめるものに成長した。機関紙の発行や講習会を開き、さらに35年付属図書館(現 大分県立大分図書館 )や43年には 大分県私立盲唖学校 (現 大分県立盲学校 と 県立聾学校 )を付属校とした。その他中央で活躍した 滝 廉太郎(れんたろう) や『尋常小学唱歌』編集委員である臼杵出身の 吉丸 一昌(かずまさ) も音楽教育に大きな貢献をした。また児童文学、特に口演童話の分野を開拓した 久留島武彦 も玖珠郡森町出身である。
〈県政の推移と党色知事〉
大正3年(1914)、立憲同志会を与党とする大隈重信内閣が成立、4月 黒金 泰義(やすよし) 知事 が着任すると、県官 郡長 警官から 米穀検査 員に至るまで党色あらわな大任免を行った。さらに県金庫事務取扱いを 二十三銀行 から 農工銀行 に移し、露骨な選挙干渉をして自派の勢力を伸ばした。中央における政党政治の伸長は、地方政治に「 超然知事 」に代わる「 党色知事 」を出現させた。7年原内閣の選挙法改正で、大分県は7区に分けられ、6区(下毛 宇佐 速見)のみ定員2名とされた。9年の総選挙で政友会が6名を当選させ、 元田肇 が鉄道大臣に就任した。予算編成権 原案執行権をはじめ、さまざまな許認可権を持つ知事の力は、地方では圧倒的に強かった。県会は知事 与党と野党の抗争の場と化した。
12年4月、 郡制 が廃止された。自治体であった郡は単なる行政区画となり、15年7月に郡役所が廃止になると地理的名称に過ぎなくなった。しかし郡費や学校組合費によって運営されていた 農会 や学校、郡道 郡有林 郡役所等の財産や郡役所職員 文書などの事後処理の問題が起こり、基本的にはほとんどを県に移管したが、学校の県立移管は難航した。
11年8月、県教育会主催の第3回 別府夏季大学 で、民本主義の提唱者吉野作造が講師として講義を持ち、『 大分新聞 』も「 民衆講座 」と銘打って武者小路実篤や長谷川 如是閑(にょぜかん)らを招いている。同年中津で 憲政会大分県支部 の提唱で 大分県普通選挙同盟 が旗上げをし、各地で普選促進演説会が開かれた。13年1月、清浦 奎吾(けいご)内閣が成立すると第2次護憲運動が始まった。 元田肇 山本達雄 らの県選出代議士は 政友本党 に参加し、県に支部が出来た。しかし8月の総選挙を前に 憲政会大分支部 を中心に護憲運動が展開された。特に臼杵町は箕浦(憲政会)と山本(政友本党)の出身地で、最大の激戦地となり、開票をめぐり 三区事件 といわれる 騒擾(そうじょう)事件が起こった。
〈変わりゆく農村〉
大正7年(1918)の 米騒動 をはさんでの米価上昇は、 小作人 にとっても小作米の値上がりという現象を生んだが、 米価 を上回る物価高に支出が増加して生活難となった。農村人口の減少 副業の増加 賃金の高騰を背景に、7年から11年ころにかけて、小作料の減額を要求する 小作争議 が県下で多発している。政府も13年に小作調停法、15年に自作農創設維持補助規則を公布して、低利融資などで自作農への転換をはかり、県下でも利用された。
第一次世界大戦 期の好景気で、 養蚕 農家などは生活が安定したが、副業をもたない小経営農家は、物価騰貴の打撃を受けて苦しんだ。さらに9年に米価の暴落が始まり、 大分県農会 は1石35円以下では販売しない運動を展開した。この時期、農家経営も転換期を迎え、1町歩以上の経営は減少し、米を中心としながらも野菜 果実や、繭の増産が顕著となる。
昭和2年(1927)の 金融恐慌 、5年の世界恐慌の中で、米価は下落する。しかも5年は豊作で暴落に拍車をかけ、さらにアメリカの恐慌で輸出は激減する。大分県は4年に、蚕業7か年計画をたてた矢先であった。 匡救事業 や 農山漁村更生計画事業 が始まるのが7年で、以後 自力更生 の名のもとに、農村は長いトンネルをくぐらねばならなかった。
〈大戦景気と恐慌の影響〉
農産額は大正期を通じて1位を占めているが、次第に低下し、代わって鉱 工産額が高くなり、昭和4年(1929)には工産額が農産額を超える。 久原鉱業株式会社 佐賀関製錬所 の開所、 成清(なりきよ)鉱業株式会社 馬上(ばじょう)金山 の全盛、 鯛生(たいお)金山 の産額増大などが、鉱産額も大幅に伸ばした。工産額は 大分紡績株式会社 の全面操業、 片倉組大分製糸所 大和組豊後製糸所 桜セメント九州工場 大分セメント株式会社 中津絹糸紡績株式会社 など大規模工場の設立と 大戦景気 によって急増した。さらに 佐伯線 ( 日豊本線 ) 大湯線 ( 久大線 ) 犬飼線 ( 豊肥線 )の開業、 新大分港 を中心とした海運業の拡充なども深く関連している。
しかし、金融 世界恐慌の影響は深刻で、特に 製糸業 は操業短縮や生糸の共同保管などで糸価の回復をはかったが、低迷状態から抜け出すことが出来ず、中小製糸家は休業や合併に追い込まれた。本県でも片倉 郡是(ぐんぜ) の2大製糸時代に入り、紡績業でも大分紡績が 富士瓦斯紡績株式会社 に合併され、 鐘淵紡績 と2社が支配するようになる。業界の不振は賃金切り下げや人員整理につながり、5年には 山十製糸大分工場 、6年には 富士紡大分工場 で争議が起こっている。その他佐賀関製錬所や 大分セメント津久見工場 でも発生している。
米価高騰による農村の好況を反映して、銀行の出資者であり、経営者である 地主 層が製糸や地方 鉄道 などに出資した。政府は銀行の合併により最低資本金の引き上げをはかったが、本県は大正8年末、46銀行と乱立状況が続いた。10年 大分銀行 は 豊後銀行 などを合併するが不良資産を抱え込み、11年12月に取り付けから休業となり、13年1月、 二十三銀行 の援助のもとに再開した。しかし昭和2年(1927)の 金融恐慌 後の銀行合同促進命令や最低資本金100万円以上とする銀行法の公布で、2年10月に大分 二十三両銀行は合併して 大分合同銀行 が誕生した。日銀総裁 井上準之助 (日田出身)も 斡旋(あっせん)の労をとった。
〈町村の変ぼう〉
明治44年(1911)、1市26町231村あった町村が、大正8年(1919)以後の 大戦景気 の中で、産業 交通の発達に伴い、地域の中核町村を発展させ、昭和4年(1929)までに大正13年別府市、昭和4年中津市と10町が成立する。合併により財政が確立し、町村公共事務を自己の資力で処理出来る「優良町村」をつくることであり、同時に町村税負担を軽減して、各種事業が起こされることであった。明治末から展開された 地方改良運動 は、大戦後の不況の中で納税成績 勧業 村民融和 村事務整理 教育の振興 基本財産の育成などにすぐれた町村が 模範優良町村 に選定され、さらに集落単位で徴税活動や表彰が行われている。
昭和5年の県内の人口の15%は3市が占め、特に県都大分市の都市化は著しい。大正10年、 県庁舎 が竣工、 九州沖縄連合共進会 が開催された。また待望の 大分高等商業学校 が初の高等教育機関としてこの年4月開校した。上下水道や市街地の整備も進められた。一方大正7年 シベリア に出兵、8年2月 ユフタの戦い で田中支隊全滅という悲劇を生んだ 歩兵第72連隊 が、14年軍縮で廃止され、代わりに 歩兵第47連隊 が大分に移駐して来た。7年8月、県下でも 臼杵町 と 別府町 で 米騒動 が起こった。特に別府は京阪神の騒動が早く伝わる交通事情も大きく影響したことも一因であるといわれる。そして11年3月、 別府的ヶ浜焼き打ち事件 が起こり、 部落解放運動 の中で、 被差別民衆 に対する差別事件として全国的にも大きくとりあげられた。13年3月には別府市で、 大分県水平社 の結成大会が開かれた。
〈選挙粛正運動と大政翼賛会の成立〉
昭和7年(1932)6月着任した 田口 易之(やすゆき) 知事 (3年10か月在任)は、党派色を持たず、 選挙粛正運動 や 広瀬神社 の創建、 松栄山(しょうえいざん) 大分県 招魂(しょうこん)社 の神苑拡張、 宇佐神宮造営奉賛会 の結成、さらに 時局 匡救(きょうきゅう)事業 の推進等の実績をあげて高く評価された。10年6月選挙粛正委員会令が公布されると、大分県は全国のトップを切って設置し、11年1月、10日間にわたって全県で選挙粛正部落懇談会が延べ2,256回も開かれた。時局匡救事業は農山漁村の救済と不況打開を達成しようとするもので、7年から9年を中心に11年まで続けられ、県下全市町村にわたって実施され、不況下の雇用創出と産業基盤の整備に大きな力となった。数多くの事業が施行されたが、 別大国道 大分港 大野川工事 は9年当時、県下の三大事業といわれた。
粟屋仙吉(あわやせんきち) 纐纈弥三(こうけつやぞう) 灘尾弘吉(なだおひろきち) 知事は、いずれも 日中戦争 から 太平洋戦争 突入期の銃後の枢要課題について、大分県での実績が評価されて栄転した。 選挙粛正運動 を引き継いだ 国民精神総動員運動 の中で、全県下で 隣保班(りんぽはん) が組織整備され、政党の支部 市町村部会も事前調整をして無投票や政争のない理想選挙を行った。15年8月 政友会県支部 が、9月には 民政党県支部 も解党式をあげ、12月6日 大政翼賛会大分県支部 が結成された。 纐纈弥三 知事 が常務委員会を主宰し、16年1月に 灘尾弘吉 知事が支部長に就任、市町村支部長は市町村長が任命された。17年4月の総選挙では、翼賛政治体制協議会の推薦候補が全員当選した。大分県会も、15年11月「協力一致大政翼賛の実をあぐるため、県会議員全員を以って大分県会議員倶楽部を組織する」ことを決定した。
〈戦時下の市町村〉
昭和10年(1935)に至っても、農村では昭和初年の状況に復帰できず、繭価 米価 を中心とする農産物の価格の下落が、一般商品価格のそれを大きく上回った。その中で8年以後、国 県 市町村税 の徴収額は連年増加し、租税総額は15年で1.2倍、18年4.7倍、20年には8.2倍に膨張している。軍需インフレによる物価上昇の影響もあるが、戦争の継続と拡大が県民に大きな負担となったことを示している。
6年末県下の自治体数は3市35町218村であったが、町村負担額の割高な小町村の合併が進められ、19年までに、20市町村の合併が行われた。その中で大分 中津 別府は周辺町村を編入して拡大し、新たに15年に日田市、16年に佐伯市が 町村合併 で 市制 を施行している。特に大分 佐伯は軍事的要請や工業都市化の進展に関連しており、 日田市 は林産観光都市として本県初の内陸都市である。
〈郷土部隊の足跡〉
昭和7年(1932)12月 歩兵第47連隊 へ動員令が下り、満州の戦場へ出動し、8年10月大分へ 凱旋(がいせん)した。 日中戦争 が始まると、12年8月には出動命令が出て、華北から華中へ転戦、以後海南島や福州作戦などをへて台湾に移住した。その間補充部隊の歩兵第147連隊も華中戦線へ出動した。47連隊は 太平洋戦争 が始まるとまもなく台湾からフィリッピン戦線に加わり、その後ジャワ チモールをへて終戦は小スンダ列島のバンダル島で迎えた。大分の兵営にいた 西部第69部隊 が、18年6月に 都城(みやこのじょう)の西部第23連隊へ吸収され、その跡に、 東京陸軍少年飛行兵学校大分教育隊 が10月に開校、19年6月 大分陸軍少年飛行兵学校 として独立、14 15歳の少年兵の厳しい訓練が終戦まで続けられた。
昭和9年2月、県内最初の海軍基地として 佐伯海軍航空隊 が開隊し、豊後水道の防備を担当した。ついで13年12月に大分、14年10月 宇佐海軍航空隊 が開隊、練習航空隊として艦戦 艦攻 偵察(ていさつ)の訓練に明け暮れた。
〈太平洋戦争下の県民〉
昭和16年12月9日、 灘尾弘吉 知事 の「大詔を奉じて、奮起し、一死以て聖恩に報ゆる覚悟」を求める布告が出され、12日には県より市町村長に隣保団結 防空訓練 消費規制 闇取引の禁止 国民貯蓄の増強など生活全般にわたる戦争遂行への協力 規制が要請された。さらに17年後半以後、急速にきびしい局面を迎える中で、戦力増強に絶対必要な生産力の拡充などの施策が重点的に取り上げられ、本土空襲に対する防空体制の確立と訓練が緊急課題として警防団 学校報国隊 隣保班 に求められた。
戦線の拡大、米軍の激しい反抗による将兵の損失を補うために、18年10月在学中の徴集延期が取り消され、12月には徴兵年齢が19歳に引き下げられた。 大分高等商業学校 と 大分師範学校 は在学年限の短縮で、18年9月に卒業式をあげたが、そのまま海軍予備学生や陸軍特別操縦見習士官を志願する者も多数出た。また12月には学業半ばで入隊する 出陣学徒 の仮卒業式や壮行会も行われた。14年7月に公布された 国民徴用令 は、16年以後つぎつぎと改正され、広範な国民を強制的に 軍需工場 へと動員した。 企業整備 も強化され、商店や町工場から多くの事業主や従業員が転用された。女子も 勤労 挺身(ていしん)隊 という名で動員された。19年3月には、「学徒動員実施要項」が決まり、県内の専門学校や中等学校の3年以上が、長崎県の川南工業などの県外工場や大分市の 第十二海軍航空廠 や坂ノ市町の 東京陸軍第二造兵廠 などに、学徒報国隊として勤労動員され、 終戦 まで働き、 空襲 で犠牲者も出た。
15年に砂糖、16年に 米 と 木炭 が 配給制 となり、17年からは衣料が 点数切符制 となるなど日常生活は、統制下ますます苦しくなった。また 企業合同 も進められ、17年4月から 大分合同新聞社 が発足したのを始め、交通機関では17年5月の 関西汽船 、19年 大分バス が県南の路線を統合、20年に 大分交通 が設立された。経済面のみでなく文化 スポーツなどの面での統制も厳しく、 大分県美術協会 も18年11月の展覧会で中止となり、音楽会も17年ころまでで、以後は志気高揚と愛国精神育成のための鼓笛隊が作られるように、音楽界の活動は停止してしまう。学校 スポーツ も 太平洋戦 争の 勃発(ぼっぱつ)とともに、学校報国団の活動に包括され、皇国民錬成のための修養組織となり、18年に入ると、スポーツは全く姿を消した。
〈本土決戦体制下の県下〉
19年7月、サイパン島が米軍によって占領され、本土空襲は必至となっていた。県では京浜 阪神などの疎開区域からの転入者受け入れの要請を出し、就職 転入学 輸送及び諸物資配給などに万全をはかるために、県庁内に 大分県疎開地方転出者斡旋本部 を置いた。
20年3月18日、アメリカ機動部隊から発進した艦載機が、早朝より大分 宇佐航空隊 などを中心に、翌19日まで波状的に攻撃して来た。この初空襲をきっかけとして、県下はB29や艦載機の攻撃にさらされ、県都 大分市 では、7月16日夜から17日にかけて、B29による焼夷弾攻撃を受けて、市の中心部が焼失するという大被害を受けた。
宇佐航空隊からは、4月から5月にかけて、8次の 八幡護皇特別攻撃隊 が沖縄方面へ出撃し、 佐伯航空隊 も、7月に第8特攻戦隊に編入された。 大分航空隊 は、3月以降の相次ぐ空襲で機能が低下したが、沖縄作戦部隊の基地として 西海航空隊 として編成され、8月3日には、鹿屋から 第5航空艦隊指令部 が、大分市牧の横穴壕に将旗を移して指揮をとった。 終戦 の詔勅がラジオを通じて、国民に流された8月15日の午後、 宇垣纒(うがきまとめ) 長官直率の彗星11機が、沖縄へ最後の特攻攻撃のために大分基地を離陸した。この日、36代 中村 元治(もとはる) 知事 は「百万県民各位は、(中略)よく大御心を奉体、軽挙妄動大局を誤ることなく、よく臣民道を尽されんことを望んでやみません」と告諭を出している。
〈戦後混乱の安定と県政〉
昭和20年(1945)9月4日、九州では鹿屋に米軍先遣隊が進駐した。10月1日、県は外務課を新設し、占領軍の連絡事務に当たらせた。10月13日に米軍300名が佐世保より大分へ進駐、 大分連隊 跡の兵舎に入った。その後軍政本部と実戦部隊に分かれ、実戦部隊は21年12月に別府市に建設された「 キャンプ チッカマウガ 」に移駐した。軍政本部は県下の 戦争犯罪 者 公職追放 武器の接収 食糧放出の督促や教育改革など強い指導を行った。
戦争から解放された県民も、 台風 の被害による凶作と海外 引揚 復員 等による人口の増加で、 未曾有(みぞう)の 食料難 に襲われた。対策として生産農家の自主的供出を図り、消費者への円滑な配給に努め、農業技術の改善や農村経営の合理化、さらに農耕地の拡大などを通して増産に力を尽くしたが、飢餓状況は続いた。一方 農地改革 も占領政策として強力に進められた。21年10月 自作農創設特別措置法 が公布施行され、県下各市町村に246の 農地委員会 と県に農地委員会が設けられ、農地委員の選挙が行われた。
インフレの 昂進(こうしん)とともに、戦災者や引揚者等の生活困窮は深刻となり、生活必需物資の給与や生産資金貸付等の保護を行った。生活費の暴騰による賃上げ闘争を主眼とする労働運動は急激なる発展を見るが、25年12月、全労働者の大同団結が叫ばれて 大分県労働組合評議会 が発足する。一方24年4月には、県内の生産 通貨 物価の安定を図るため、 大分県経済安定九原則総合企画審議会 が設置された。
平和を愛好する文化国家建設も戦後の重要な課題であった。 教育委員会 の発足とともに 男女共学 と 六 三新学制 の実施も順調に行われ、22年 中学校 、23年 高等学校 、24年 大分大学 が誕生した。 社会教育 についても青少年や婦人団体の指導と文化向上に成果を挙げた。
〈民選知事の誕生と町村合併〉
昭和22年(1947)5月、 官選知事 細田 徳寿(とくじゅ) が初の 民選知事 として当選する。戦後改革のほか施策の中心は、 昭和井路 の建設 大野川河水統制事業 など治山治水事業であった。2期目は、阿蘇 九重地区と祖母 傾(かたむき)地区にまたがる広大な地域の総合開発も立案されたが、充分な成果を挙げることが出来ず、 県財政 は27年度以降、毎年実質赤字を出すようになる。県下の市町村も 新制中学校 の設置を始め、戦後改革に伴う行政費の増大、人件費の増加、さらに公共事業費の地元負担額の増加で、財政は窮乏の 極(きわみ)に達した。特に28年6月の豪雨は県下全体に甚大な被害をもたらし、復旧に多額の支出を必要とした。
25年 臼杵市 、26年 津久見市 の成立のほか、9町村がこの時期、合併によって成立した。28年の 町村合併促進法 の施行で、29〜30年には町村の合体 編入が進み、31年2月に11市33町24村に整理され、弱小町村の解消が図られた。戦災を受けた 大分市 は、将来の発展の目標を工業都市建設に置く構想を立てた。占領軍の駐留する 別府市 は、瀬戸内海 阿蘇 雲仙を結ぶ国際的観光温泉都市をめざし、25年に 別府国際観光温泉文化都市建設法 を成立させ、39年には 国際観光港 を基点に、九重をへて阿蘇に通ずる 九州横断道路 が完成した。
〈新産業都市の建設〉
昭和30年(1955)4月、 木下 郁(かおる) が41代 知事 に就任、以後4期16年間県政を担当した。自主 財政再建 計画による厳しい緊縮政策を断行しつつ、 大分川総合開発計画 、 昭和井路工事 を続け、緑化計画や敬老年金制度の創設など実施した。2期以後、県の産業構造を工業化の方向へ転換、 芹川 や 北川ダム の開発、 大分 鶴崎臨海工業地帯 の造成にかかった。41年に第21回「 大分国体 」を開催し、天皇杯を獲得した。37年には 県庁舎 も新築 移転した。
39年1月「大分地区 新産業都市 」の指定を受け、建設工事も本格化した。39年 九州石油 、44年に 昭和電工グループ の石油化学コンビナートと 九州電力 の 火力発電所 が操業を始め、47年 新日本製鉄 の1号高炉に火入れが行われた。鉄と石油を基幹とする重化学工業の立地で、「新産都の優等生」と呼ばれるまでに地位を高めた。関連して46年10月 新大分空港 が、東国東郡 安岐(あき) 武蔵町のまたがる海面を埋立てて開港、ジェット機が就航した。
46年4月45代知事に 立木勝(たきまさる) が当選した。 高度成長 に伴うひずみの激化した時期で、県下でも臼杵における 大阪セメント の海岸埋立反対を始め、 環境汚染問題 がクローズアップされ、県も46年公害局、48年環境保健部や 公害環境センター を設置して対応に努めた。新産都2期計画は、造船など1期計画と補完しあう企業や港湾整備を目的に6〜8号地の埋立てを計画したが、 8号地 は地元との意見集約が出来ず48年5月に分離 中断された。48年の 石油危機 は県民生活や県経済に深刻な打撃を与え、県も地域格差の是正 県民福祉の増進 交通体系の整備など均衡と調和のとれた県づくりが目ざされた。 同和対策 の推進 しあわせの丘 大分医大 の開学 へき地医療の整備 芸術会館 の開館なども行われた。
〈豊の国大分21世紀への助走〉
昭和54年(1979)4月、47代知事として 平松 守彦(もりひこ) が就任する。低成長の厳しい時期に、県民の創造力とエネルギーの結集による地域づくりを中心に、大分県の地域の特色を出し、主体性を持つ県政の確立をめざした。「 一村一品運動 」「 臨空工業地帯構想 」「 テクノポリス構想 」と時代を先取りする施策を次々と出して、新しい豊の国づくりを推進した。
2 3期目に入り、一村一品運動は全国に波及し、諸外国からも注目され、テクノポリスの企業の相次ぐ操業開始や ソフトパーク 建設などの全国モデルになっている。県南 マリノポリス構想 の実現、さらに高齢者社会に向けての「ニューライフ大分計画」、 ニューライフプラザ の完成、また56年から開催されている 大分国際車 椅子(いす)マラソン大会 など国際的行事も進められ、 九州横断自動車道 も一部開通、21世紀への助走が本格化し始めた。
[吉田 豊治]
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