| 大分の古代美術 | ||
![]() 宇佐市 虚空蔵寺跡出土 ![]() 三光村 長谷川 銅像聖観音立像 |
あとがき 賀川 光夫
宇佐市山本地区は、駅館川が山峡から平野にうつるところにある。山峡をぬけだした川は低段丘を形成するが、そこに開けた水田をみる。この田園の中に小さな石ころ藪があった。昭和26年(1951)、この石藪から採集したという 中津市伊藤田付近の丘陵は八手状をして、その丘陵の間に人造湖がたくさんあった。用水のためにつくられたものであるが、その造成にあたって丘陵の斜面の一部を切断したあとが各所に放置されていた。この切断面の数箇所に須恵器を焼く窯跡があった。谷の一つは踊ヶ迫で、そこの登窯は須恵器と瓦兼用に使用されていた。青海波の美しい文様をもつ須恵瓦は、7世紀初頭の建物に使用されたに違いない。飛鳥時代に建立された寺を想定できるものであった。間もなく久多羅木儀一郎先生のお伴をして中津市郊外三光村の長谷寺をたずねた。そこでみた総高39.4cmの小形観音像は、口もとに微笑を浮かべ、腰をわずかにくねらした金銅の立像であった。薄暗い御堂で拝んだ観音立像の口もとの微笑は、飛鳥仏と見間違うほどに美しく、心の奥深く刻み込まれた。この寺で香取秀真氏の鑑定書をみることができた。それには銘文の解読によって皇極天皇元年につくられたと記されていた。若い私にはこの御仏が飛鳥仏に間違いないものだ、という印象が強く、ここで再び、豊前は「小さな飛鳥」という気持ちを濃くした。薄暗い御堂から日当りのよい場所に移された金銅の御仏の全容は各部の様子を余す ところなく露顕させた。観音立像の下方には返花と丸框があり、その丸框をめぐって三十五字の銘文がある。「壬歳次摂提格」とあり「壬寅」の年に制作されたことを知る。これについては「壬寅」の年は皇極天皇元年(642)とする説と、文武天王大宝二年(702)とする説があり、香取秀真氏は前者を、久野健氏は後者をとっている。本書の解説では倉田文作氏がこれにふれ文武天皇大宝二年説をとっており、現在の仏教美術の立場から見て白鳳美術の遺例とみるべきであろうか。 さて本書によってもおわかりのように、大分の彫刻や建造物にはまるで謎に満ちたものが多い。熊野磨崖仏や臼杵磨崖仏をはじめ県内各地の石仏には造像銘がない。また富貴寺や龍岩寺などの建造物にもそれらの造像について記した文書はわかっていない。国東半島各地に分布する古寺や石仏、木彫の多くも正確な記録で造顕の年代を証明することはできない。古寺も彫刻もすべて仁聞菩薩のつくるところとなっているのは何故であろうか。 文献史学の領域で多くの謎を解き明かすことが不可能であるとすると、美術史、建築史等の分野において推理を重ねる方法によらねばならない。勿論、これらの方法で問題を解明しようとしても完璧は望めない。何故なら造立の年代を推理し得たとしても、造立理由を知る手掛はないからである。しかし富貴寺が誰の願望によって建立されたか、それは不明であっても天台浄土の思想が根底にあることは、御堂の形式や、本尊、壁画から推理できる。謎に満ちた古代大分の仏教美術の数々を、このような美術史的、建築史的立場で検討し集大成したのが本書『大分の古代美術』である。 大分の古代美術は日本美術史の中で特異な存在である。古くは「小飛鳥」といわれるほど中央との関係が深く、白鳳時代の | |
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