大分の古代美術

奈良三彩

金堂跡:法隆寺系忍冬唐草文軒丸瓦

西院跡:単弁八葉軒丸瓦

西院跡:扁行唐草文軒平瓦

東塔跡:梵字種子軒丸瓦

東塔跡:均正唐草文軒平瓦
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弥勒寺瓦の変遷
弥勒寺跡出土

宇佐市大字南宇佐 宇佐神宮
奈良三彩破片2点
軒平瓦(法隆寺系忍冬唐草文)
以上奈良時代

軒平瓦(単弁八葉) 軒平瓦(扁行唐草文)
以上 平安時代(11世紀)

軒丸瓦(梵字種子) 軒平瓦(均正唐草文)
以上 平安時代(12世紀)

 八世紀中頃に宇佐神宮境内に建立された弥勒寺は、宇佐八幡信仰と合せて朝廷の尊崇を得て準官寺的保護をうけた。さらに平安時代に下っては石清水八幡宮<いわしみずはちまんぐう>を本家を仰いで同宮別当が弥勒寺の講師<こうし>、検校<けんぎょう>を兼ねるようになった。このような歴史的背景のもとに弥勒寺の古瓦には古代を通じて畿内との交渉がたどられるのが特色である。そして九州の諸寺にはまったくみられない種類であることも注目されるところである。
 天平一〇年(七三八)建立の金堂跡には周縁に珠文をめぐらした忍冬唐草文<にんどうからくさもん>軒平瓦が使用された、七世紀代に宇佐地方に出現した法隆寺系忍冬唐草文から変形した文様で、上面には瓦工名と思われる「赤麻呂」の刻銘がある。
 西搭跡では単弁八葉軒丸瓦と扁行唐草文の軒平瓦のセットが使用された。軒丸瓦は中房に1+8の蓮子を配し、その周囲に蕊<しべ>を表す放射線帯をめぐらす。単弁は桃の実状で先端の尖る珍しいものである。軒平瓦はやや硬化した扁行唐草文で狭長な作品である。このような軒丸瓦の文様は藤原時代の瓦や梵鐘にしばしばみられる。永承六年(一〇五一)に弥勒寺が焼亡し、天喜年間(一〇五三〜五七)の復興のときに使用されたものと考えられる。
 また平安時代末期頃の様式を示す一組の古瓦がある。軒丸瓦には梵字を入れているが、東塔跡出土の本例は「アク」(不空成就如来)を表わす。このほか金堂跡でも「キリーク」(阿弥陀如来)を表わす例がある。軒平瓦は連珠文心飾<れんじゅもんしんかざり>を中心にして左右交互に反転する均正唐草文を派生させている。上、下帯には三個づつにまとめられた「吹き寄せ」手法の珠文を三単位づつ配している。梵字文瓦は元暦元年(一一八四)豊後国緒方庄庄司緒方惟栄<おがたこれよし>が宇佐宮に乱入して焼払ったので、文治四年(一一八八)復興したときに使用されたものであろう。
 昭和五七年六月弥勒寺北側溝から創建瓦とともに奈良三彩の破片二がみつかった。唐代貴族の華かな生活を思わせる唐三彩は西京(長安)、東京(洛陽)近郊から主にみつかるが、奈良三彩、二彩は、それを模して畿内でつくられたものとみられる。弥勒寺跡では一辺五cmと三.四cm(最大)の三角形断片の二個があるが、白、緑、黄の三彩をかけた唐三彩を真似たもので、正倉院に伝世保存されている奈良三彩、二彩にも似ている。
(小田 富士雄)
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