大分の古代美術





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木造阿弥陀如来坐像 一躯
豊後高田市大字蕗 富貴寺
榧 寄木造 現状素地
像高85.3cm
平安時代後期(12世紀)
重要文化財
九州に残る唯一の平安後期の阿弥陀堂<あみだどう>建築として著名な富貴寺大堂の内陣須弥壇<しゅみだん>上に安置される等身、定印<じょういん>の阿弥陀像である。
 用材は榧<かや>とみられ、頭・体躯幹部を大略一材から彫成し、頸部で割り放して内刳<うちぐ>りを行い、後頭部(後補)、背板(左右二材)を矧ぎ付け、さらに左肩外側部には木心をこめたままの材を用いているが、こうした用材法は都作にはあまり例がなく、本像がこの地方での制作である一つの根拠となりえよう。
 現状、ほとんど木肌を露わしているが、もとは彩色像でじゃなかったかと思われる。
 半円形の整った肉髻<にくけい>、ふくよかな面部からの丸みを強調した両肩など、その姿態はすべてにやわらかい曲面で構成され、優美な曲線を描いて浅く流れる納衣<のうえ>の襞もこれとよく調和している。いわゆる平安後期の定朝様の典型的な作例であるが、おおらかで均整のとれた構成や目を伏せるおだやかな表情に定朝様の本質がよくとらえられており、膝下に敷きこまれてたわむ衣の処理も巧みである。十二世紀も早い頃の都風の制作と推定されるが、当代におけるこの地方の造像水準の高さを示す好個の遺例としてもみのがせない。
 俗に「蕗<ふき>の大堂」の名で親しまれる富貴寺は、『大宰管内志<だざいかんないし>』所収の仁安三年(一一六八)編の「六郷廿八山本寺目録」によると、本山本寺西叡山高山<もとやまほんじさいえいざんたかやま>寺の末寺となっており、当時、既に存在していたことがわかるが、大堂の建立は建築様式上、あるいは堂内装厳の仏画の描法からも、仁安年間(一一六六〜六八)までは遡りえず、一二世紀末から一三世紀初頭の頃とする説が一般的である。とすれば、大堂に先行する本尊が元来、この堂に付属する本尊であった可能性は少く、当寺のいずれかの堂宇から移安されたかとも思われるが、華やかな仏画で彩られた本道内陣はこの雅<みやび>やかな藤原仏を祀るにふさわしい場所といえよう。
 なお、この大堂には、現在本堂に祀られている平安後期の阿弥陀三尊像が近年まで本尊として安置されていたが、この三尊は江戸時代元禄の頃、旧本尊の痛みがひどいため、信者が京都より求めたものという。
(松島 健)
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