大分の古代美術

ホキ第一群(堂ヶ迫)  ホキ第二群 遠景

臼杵磨崖仏配置図


復元前の古園大日如来像

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臼杵磨崖仏(総説)
臼杵市大字深田
石造
平安〜鎌倉〜室町時代
特別史跡 重要文化財
磨崖仏とは自然の崖地に露出したり岩肌を削りくぼめて、そこに仏の姿を刻みだしたものをいう。わが国に仏教が伝来した頃、すでに中国では雲崗<うんこう>や龍門<りゅうもん>などの大石窟寺院が造られ、数多くの磨崖仏が刻まれていた。それらはいずれも皇帝の命により国家的な規模で開鑿<かいさく>されたものである。これに比べて我が国では磨崖仏や石仏のほとんどすべてが、それぞれの地域における大衆の手で発願され、造像されたものとみえ、正史や古記録に残されることも少なく、造像の年代や経緯もよく知られていないし、また日本彫刻史の主役となるような作例も少ない。日本には大規模な磨崖仏を造るのに適した石材が乏しかったことも、その原因であるかも知れない。それでも日本の磨崖仏は、奈良時代から鎌倉時代にかけて、各地にかなりの数の磨崖仏が遺されている。
 臼杵磨崖仏は、配置図に示す通り、臼杵川に沿う丘陵の谷あい斜面に、古園(十三躰)、山王山(三躰、「かくれ地蔵」と称する)、ホキ第一群(四龕<がん>に分かれ計二十五躰、「堂ヶ迫<どうがさこ>と称する)、ホキ第二群(三龕に分かれ計一九躰、内所在不明一躰を含む)四グループに分けて刻みだされた大規模な遺跡である。
 各龕の彫りこみは浅いが、像はどれも像身の大方を高肉彫りとしている。龕の上方には、水はけの溝が設けられ、また覆屋<おおいや>を架設した時の柱や貫<ぬき>の穴や切りこみを残す所もある。各龕の間では、同時代のものでも像の組合わせや、作風に相違があり、甚だヴァラエティもある。この磨崖仏の造立については全く記録はないが、その主体部は平安後期(11〜12世紀)に刻まれたもので一部に鎌倉の至室町時期に追刻されたものを含んでいる。総じて、製作時期、製作の優秀さ、また規模の大きさからいって、わが国の代表的な磨崖仏とすることができるであろう。
 昭和37年、これらが重要文化財に指定される際、文化庁(当時の文化財保護委員会)では、時代が古く製作が秀れ、時に保存状態のよい古園石仏(十三躰)、山王山石仏(三躰)、ホキ石仏第一群第一・二龕(八躰)、ホキ石仏第二群第一龕(三躰)計二十七躰を本指定とし、残りの三十三躰を「付」指定とした。この磨崖仏の各龕の順番は、地元の伝えや、研究者の取扱いに不統一があるので、ここでは文化財指定の際の命名、つまり配置図に示した命名によって紹介することとしよう。
(西川 杏太郎)


*臼杵磨崖仏は、
平成7年6月15日、国宝に指定されました。
臼杵磨崖仏の国宝指定
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