大分の古代美術
総説 仏教以前 賀川 光夫



櫛歯文土器(安国寺遺跡出土)
第二章 弥生時代

縄文時代の終末は、北九州などの一部で農業がはじまり、大陸特に朝鮮半島南部との交流が盛んになった時代である。金属器の導入は村落の生産活動を発展させ武器を飛躍させて村落連合の小国を各所に出現させるころになった。魏志(東夷伝)にみえる邪馬台国は強固な農業基盤に立ち部落連合の盟主的国家形成をとげるに至った。こうした弥生時代の生業は次第に専業化の傾向にむかい、生産具や武器も量産され国家として機能が固まりつつあった。大野郡大野町松木遺跡における第三一号住居跡より多量の石材と加工中途(未完製品)の石鏃<せきぞく>片、完成された磨製石鏃がみつかったことなどから推理すれば、すでに武器の生産は専業でおこなわれたとみるべきである。
 魏志(東夷伝)などには弥生時代の生業、例えば機業などについては細部にわたって記載されているが、その遺物の保存は困難で、織物の文様をいま復元することはできない。当時の美術的要素を知ろうとすれば、縄文時代同様、土器をつくる技術、そして端正な器形と文様によるほかにない。東国東郡武蔵町内田遺跡からみつけだされた壺形土器は北部九州地方で発達した端正な形の土器で、洗練された技術によってつくられている。
 板付式土器と汎称<はんしょう>される北九州の土器は内田遺跡の他、例をみないが、佐伯市下城<しもじょう>遺跡よりみつかった深鉢形土器の口の部分にみられる刻目凸帯の土器は比較的広く分布している。下城式土器は、深鉢の口の部分に一〜二条の刻目凸帯文を施すことを特徴としており、その源流を探ぐる研究が盛んである。しかし今のところ下城遺跡などを中心とした一帯の個性的土器としておくことがよい。
 北九州の影響が稀薄で、地方要素の強い下城土器とともに大分県全域に広い分布をもつ土器は、畿内、瀬戸内系統の櫛目式土器である。昭和23年から五ヵ年を要して発掘がおこなわれた東国東郡国東町安国寺遺跡は、弥生終末の村落で河道を利用したU字型の環溝<かんこう>による。この環溝の一部が湿田として利用されていた。弥生式土器はこの溝から集中してみつかり、一部を除いて砲弾形に統一され底部は丸くつくられている。口の部分は外に反るが、この唇部に接して更に粘土のタガを一段重ねて直立される。いわゆる二重口縁を形づくる。この口の部分の直立部分が主として文様を施すところで、櫛歯状の工具で波状文をはじめとする各種の平行沈線文<ちんせんもん>が施されている。
 櫛歯状工具は放射肋をもった二枚貝の復縁であったと思われる。この櫛目状二枚貝の腹縁部を横走させて各種の櫛歯状文を形成するのであるが、同様の櫛目波状文は瀬戸内一帯に多く分布している。
 さて弥生式土器の一部には丹塗磨研の技術や、彩文を施すもの、木葉文や同心円文などを線刻したものなどの特異なものがみられる。このうち丹塗磨研土器は前期土器をはじめとして中期の祭器に多く、木葉文や同心円文の線刻文は前期末から中期にかけての遺跡から多くみつかる。宇佐市東上田遺跡や周辺遺跡から線刻による木葉文を施した壺型土器が多くみつかり、北部九州地方の弥生式時と対比される。彩文土器は出土例が少なく、主に弥生終末の遺跡においてみつかっているが、大野郡二本木<にほんぎ>遺跡の櫛目式土器の一部に朱塗りの文様を併用させているのは注目される。
 弥生式土器は縄文式土器の文様と異なり端正な器形とともに絵画や彫刻的要素を主体として次第に美術的な高まりを感じさせるものがある。端正な器形そのものは美術的にみても高度の技術を要するところであるが、それには轆轤<ろくろ>の使用が大きく働いていたものと考えられる。轆轤は土器製作にももちいる回転台であるが、その最も原始的なものは縄文晩期の土器製作にも使用された可能性がある。
 大分県の弥生式土器は板付式や城ノ越式など北九州の洗練された土器に線刻文を施すものが一部でみられるが、地方色の強い刻目凸帯文の下城式土器とともに櫛目式土器(安国寺式)が中期から後期にかけて盛行していることがよくわかる。
第三章 古墳時代へ
戻る