大分の古代美術
総説 仏教以前 賀川 光夫


細線式獣帯鏡(日隈神社蔵)


鏡板(太郎・次郎古墳)


紡錘車型石製品(飛山古墳出土)
玄武文
(亀に蛇がまきついている形の怪獣)
第三章 古墳時代

治金技術、金工のそれも大陸において発達した。その重要な利器、および工芸品の数々が日本に到来した記録は、魏志(東夷伝)である。「銅鏡百面」が海を渡り邪馬台国にもたらされたのであるが、考古史料としては西漢(前漢)以前の中国の文物が日本の一部から稀に出土することがある。昭和8年(1933)久大線工事にあたって日田市郊外のダンワラ古墳の封土が彩土の対象となった。この彩土の中から数点の遺跡が発見された。その中の一つが西漢代の「金銀錯嵌<さくがん>珠龍文鏡」であった。この鏡は鉄鏡で、鏡背を嵌玉<かんぎょく>の金銀錯龍文で飾った秀品で、西漢における宝飾背鏡の最高のものといえる。大きさは梅原末治博士の調査で径21.3cm、厚さ2.53mm、扁平で鏡背の構図は鈕<ちゅう>の外側に四葉座があり、内区には体を大きく曲がりくねらせた二匹の爬龍<きりゅう>をうまくからませた文様がある。周辺には渦雲文(華雲文)帯で縁取り、内区の爬龍文の古動物構図に合せて華雲文を調和した素晴らしい構図である。更にこの文様は、金銀錯の手法であらわし、龍の隻眼や体の一部にはトルコ石とみられる珠玉を嵌入して色彩の色どりに効果をあげている。およそこの古墳の出土例は中国においても稀有なところであって、わが国に招来されたわずかな同種鏡のうち最高級のものと考えてよい。さて、ダンワラ古墳は、この珠龍文鏡の出土にとどまらず、「金錯鉄帯鉤<さくてつたいこう>」を出土していることが、ほぼ確実となった。東京国立博物館に近年日田市より移管された帯鉤がそれである。長さ22.6cm最大巾3.8cmこの鉄の帯鉤は、連匂<れんこう>雲文を、金錯の手法であらわしたみごとな金工技術で、珠龍文鏡とその工法を一にしたものと考えることができる。これらの工芸技術は、精良な白銅でつくられた漢宮室での尚方官<しょうほうかん>造りの四神鏡にもましてみごとな宝器で、なおそれらより時代の古いことは確かである。このような工芸資料、珠龍文鏡と帯鉤が同じく日田市ダンワラ古墳から出土したとして、他にみるべき遺跡はなかったのであろうか。久大線建設に伴う彩土のために古墳の封戸が無惨に破壊されたことは間違いないとして、数多くの宝物を包蔵していたと思われる。ダンワラ古墳の残骸は今もなお存在しているが、それは一体どのような豪族の墳墓であったのだろうか。気になるところである。
 さて、日田市日隈<ひくま>の古墳跡から発見されたといわれる東漢(後漢)の細線式獣帯鏡がある。鏡の径は22.6cm、縁は平縁で厚さ7mm、反りは5mmほどある。鏡背の鈕は4.5cmでその周囲に瑞雲文<ずいうんもん>を配し銘帯をはさんで細線の獣帯文が八乳座に仕切られてあらわされている。銘文は一部判読を含めて左の如く読める。
 銅梁(「青蓋」カ)乍鏡四夷服 多賀國家人民息 胡虜殄滅天下服
 風雨次節五穀孰 長保二親得天力 楽兮
 銅梁の文字は青蓋であるかも知れぬが、大阪府三島郡土室村石塚よりみつかった鏡と細部まで符号するところから銅梁と読むべきであろう。この東漢鏡もまた注目すべきものであり、一.二の例を除いて稀な資料といえる。
 漢代古鏡で注目すべきものとして豊後高田市黒松鑑堂<かがみどう>の画像鏡がある。鏡の径は20cm、縁厚7mmで反りは5mmほどある。鈕の外縁には小粒の珠文が施され、ただちに内区の画像帯となる。内区は大型の乳座が四ヶ所に配属されその間に青龍、白虎を対峙させ、更に神像二体(東王父、西王母)と車馬を配置している。この画像は漢墓の画像石などの主要部の抽出で神仙思想の強い影響がうかがわれる。また表現の巧妙さにも比して重要なのが銘文で、読書で三十九字の整った文書である。
 劉氏乍竟四夷服 多賀 國家人民息 胡虜殄滅天下復
 風雨時節五穀孰 長保二親得天力 大吉利兮
 とあり、先の日田市日隈古墳跡発見の細線式獣帯鏡の銘文とおおむね同文であって東漢初期に好んでもちいられたものとみられる。
 畿内系古墳の副葬には魏鏡といわれる三角縁神獣鏡が副葬されることが多い、宇佐市赤塚古墳は全長51mの前方後円墳で、組合式箱式棺から五面の中国鏡が見つかった。三角縁波文帯盤龍鏡、三角縁天皇日月四神四獣鏡(京都府南原古墳、同大塚山古墳の鏡と同笵鏡)、三角縁唐草文帯二神二獣鏡(岡山県香登古墳の鏡と同笵鏡)、三角縁日月天王山神三獣鏡(福岡県石塚山、同原口古墳の鏡と同笵鏡)、三角縁日月天皇三神三獣鏡(三重県筒野古墳の鏡と同笵鏡)で、盤龍鏡を除いて多くの古墳から同笵鏡がみつかり興味がもたれている。このように赤塚古墳の被葬者が魏鏡五面を保有していたという事実は、初期の大和朝廷と深い関係があったことを知る手掛りとして注目する必要がある。
 古墳時代の工芸資料は大陸から直接もたらされたものが多い。しかし鏡などの彷製は弥生時代にはじまり古墳時代には神獣鏡を中心に数多く製作されるようになった。鏡のほかに刀装具にも各種の金工が施され、六世紀には馬具の飾金具が興味をひく。別府市北石垣太郎・次郎古墳の出土といわれる鏡板<かがみいた>は透し彫りの唐草文様が施され仏教の飾金具を思わしめる。
 古墳時代の工芸品の中には大陸の神仙画像が目立つが、大分市飛山横穴出土の紡錘車型石製品の裏面に彫刻された玄武とみられる文様はわが国上代に四神思想が根付いた証拠として注目される。
 五世紀の終末から窯業に登窯が登用され灰白色硬緻の須恵器が生産されるようになる。これらは主に祭器として使用され、横穴式石室や横穴から大量に発見される。登窯の火度は高く一部では自然釉を生じ、陶芸への第一歩をみるように美しい。日田市吹上横穴より出土の子持ち高杯は墓前に配置される祭器とみられるが、縄文、弥生土器とは全く趣を異にした新技術の容器である。
(完)
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