大分の古代美術
宇佐八幡の誕生から
末法の到来まで
田村 圓澄
第一章 宇佐八幡の誕生
第二章 宇佐と仏教
第三章 宇佐八幡と奈良の宮廷
第四章 末法の到来―経塚と浄土教






姫島(国東半島から望む)





































御許山遠景(宇佐市下矢部から望む)


宇佐神宮本殿







八幡宇佐宮御託宣集
第一章 宇佐八幡の誕生

 難波<なにわ>(大阪市)を離れて朝鮮半島に向かう船は、瀬戸内海を西に進み、豊前の海岸につきあたる。いっぽう朝鮮半島から難波に向かう船は、関門海峡を南下して国東半島につきあたる。海流の関係もあるが、古代から豊前は畿内のヤマト朝廷と朝鮮半島を結ぶ海上ルートの要衡であった。
 都怒我阿羅斯等<つぬがあらしと>は大加羅<おおから>(韓国慶尚南道高霊)の王子であった。美しい乙女の後を追って日本に来たが、捜し求める乙女は、難波に到って比売語曾<ひめごそ>社(大阪市東成区東小橋北之町にあったという)の神となり、また豊前国前郡の比売語曾社(大分県東国東郡姫島村)の神になったと伝える。この説話は、『日本書紀』垂神天皇二年条に記されているが、難波―大加羅の海上交通路の上に姫島が位置し、寄港地として機能していた事実を語っている。大加羅の人が姫島に居住しており、ヤマト朝廷を訪ねる大加羅の船や、また日本から大加羅に帰る船を見送っていたのである。
 しかし地理的に近い九州北部と朝鮮半島との交流・交渉は、有史以前に遡り、また広汎に行われていた。この事実を暗示するのが、九州の山々に伝わる開創者伝承である。たとえば背振山<せふりやま>(佐賀県神埼郡背振村)は天竺の徳善大王の第十五王子、雷山(福岡県糸島郡前原町)は天竺の清賀上人、彦<ひこ>山(福岡県田川郡添田町)は魏の善正、求菩提<くぼて>山(福岡県豊前市)は高麗に入った行善というように、異国の人が創始者とされている。六郷満山<ろくごうまんざん>を開いた仁聞<にんもん>は陳王の女の子であり、深田<ふかた>の石仏は百済の蓮城<れんじょう>によって造られたとも伝える。奈良や京都の然るべき高僧を開創者に迎えることもできた筈であるが、天竺・中国・朝鮮など遠い海の彼方の人に結びつけているのは、忠実の一面を伝えているように思う。すなわち、渡来系の人々が山の近傍に移り住み、山の信仰を定着させたのであり、つまり九州北部における山岳信仰のルーツは、日本ではなく、朝鮮半島であり、更に中国大陸にまで遡<さかのぼ>らせることができるであろう。九州北部の名山に伝わる開創者伝承は、この事実を暗示している。
 九州北部の山々に根づいた信仰は多様であるが、大別すれば二つになる。第一は、山を神体として崇拝する山岳信仰であり、第二は、山にこもって苦修練行をくりかえし、超人間的な咒験力<じゅげんりょく>の体得を目指す山林修行である。前者は、水の信仰に結びつき、民衆一般の信仰として広い底辺をもつのに対し、後者は選ばれた修行者の道であるともいえよう。しかし山岳信仰と山林修行は、不可分の場合が多い。神体山の周辺で、山林修行が行われるからである。修験山伏<しゅげんやまぶし>は山岳信仰と山林修行を一身において具現したが、日本の修験は、道教の系譜につながっている。古代中国の民俗宗教である道教は、神仙の体験を通し、不老不死と現世の幸福を求めたが、道教の修行の場は山岳・山林であった。山は道教の根源であり、本質をなすものであった。
 文武天皇三年(699)に大和の葛城<かつらぎ>山で修行をしていた役小角<ええのおづぬ>は、弟子の讒言<ざんげん>によって伊豆に流された。役小角は「咒術<じゅじゅつ>」をよくし、鬼神を使役して水を汲み、薪を採らしめたという。役小角は道教の修行者、すなわち道士であった。都の藤原京に近い葛城や吉野の山々には修験の行場があり、道士が集まっていた。そしてその伝統は八世紀以降にも続くのである。
 ところで宇佐にも道教が行われていた。御許<おもと>山は神体山であり、山岳信仰の中心であったが、また宇佐の周辺には道士の行場があった。小倉山もその一つであった。
 宇佐八幡の出現には、道教的雰囲気が漂っている。宇佐八幡の出現を導いたのは、大神比義<おおがのひぎ>であるが、八幡が人を救うため。金色の鷹に変じたことを知った比義は、断穀<だんこく>三年の修行を重ね、八幡の出現を祈った。そして小倉山の麓において、三歳の幼童の姿となった八幡神が、竹の葉の上に現われ、
辛国の城に始めて八流の幡を天降し、吾は日本の神となれり
と宣した。宇佐八幡である。
 大神比義は五百歳の長寿を保ったと伝えられるが、石窟の修行や断穀の苦行は、道士にとって必須であった。大神氏(男性)は宇佐八幡の祭祀を家職とすることになるが、いっぽう神懸<かみがか>りをして宇佐八幡の託宣<たくせん>を伝えたのが辛嶋<からしま>氏(女性)であった。辛嶋氏は韓嶋<からしま>氏であり、すなわち朝鮮半島からの渡来氏族である。なお大神氏は大和の三輪山の祭祀者である大神氏の分派であるとされるが、朝鮮半島からの渡来系氏族であるとする見解も提起されている。
 右に掲げた八幡出現の託宣が語るように、辛国の城に八流の幡<はた>を天降らし、そこを聖地として降臨したのであり、したがって八幡神は元来は「韓国<からくに>」の神であったとすべきであろう。「辛国<からくに>の城」は「辛国の村」の意味であり、辛嶋氏の本拠の地を指していたと解される。宇佐には渡来系氏族が居住しており、その氏族によって奉祭されていたのが八幡神であったと思う。いっぽう宇佐八幡を守護神として迎えたのが、下毛郡仲郷を本貫とする宇佐氏ではなかったか。大神氏と辛嶋氏が祭官であったのに対し、宇佐氏は祭祀権を掌握する在地豪族であった。
 宇佐八幡の特性の一つは託宣である。宇佐八幡が出した夥<おびただ>しい託宣は、中世になって『八幡宇佐宮御託宣集<はちまんうさぐうごたくせんしゅう>』(『宇佐託宣集』)全十六巻として編集されているが、シャーマンとして託宣伝送の家職を受け嗣いできた辛嶋氏(女性)の存在と役割に注目しなければならない。宇佐八幡誕生の「辛国の城」と、神の託宣をとりついできた辛嶋氏は、不可分であったろう。託宣は「韓国」の神にとって本質的なことであったと思う。託宣をとりつぐことができない場合、辛嶋氏の女性は神職を解任されている。

第二章 宇佐と仏教
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