| 大分の古代美術 | |
| 宇佐八幡の誕生から 末法の到来まで |
田村 圓澄 |
![]() 小倉池 ![]() 虚空蔵寺跡 |
第二章 宇佐と仏教 仏教が日本に伝えられたのは、『日本書紀』によれば欽明天皇十三年(552)、また『元興寺伽藍縁起 欽明天皇の宮廷に送られてきたのは、仏教や経典であり、仏事・法会の執行者である僧・尼はいなかった。しかし欽明天皇側の対応如何により、聖明王は僧や尼をはじめ、舎利・仏具、また仏像彫刻・伽藍<がらん>建築に従事する工人・技術者などを送り、日本における仏法の興隆に、積極的な役割を果たすことを考えていたと思う。つまり百済の聖明王は、欽明天皇の宮廷に「伽藍仏教」をとどけたのである。 仏教の公伝以前に、九州に「私宅仏教」が存在していた可能性はあるが、しかし「私宅仏教」は「伽藍仏教」に移行することはありあえない。九州に「伽藍仏教」が入ってくるのは七世紀後半であり、それも地理的に近い朝鮮半島からではなく、畿内のヤマトからであった。 古代の仏教寺院は建築・彫刻・絵画、また舞踊・音楽などの綜合文化の結晶であり、いわば文化センターであった。したがって一定地域内の寺院数の密度は、その地域の文化的水準を示していると見ることができよう。 試みに、八世紀初頭以前の、豊前と筑前の寺院数を比較すると、前者が8であるのに対し、後者は5である。この数字は、今後の発掘調査によって多少の変動は免れないであろうが、豊前が筑前よりも多くの寺院を擁しており、そして九州では豊前の寺院数が最高であることは、九州における豊前の文化的な先進性を示していると思う。そして豊前の仏教の中心は宇佐であった。 九州の、そして宇佐の一地方神にすぎなかった宇佐八幡が、中央に進出して「国家擁護」の神になるのは、日本全国の神々に先駆けて、仏教に帰依したことに原因をもっているが、まず宇佐八幡と仏教との出会いについて述べよう。 平城遷都から十年間がすぎた養老四年(720)年に、九州南部の隼人<はやと>が蜂起し、大隈国司の陽候史麻呂<やこのふびとまろ>を殺害した。政府は中納言の大伴旅人<おおとものたびと>を将軍に任じ、隼人の討伐を命じた。大伴旅人の部隊には宇佐の兵士も参加したが、さて討伐が終ったところ、宇佐八幡が託宣を下し、合戦の間に多くの隼人を殺害したので、この罪障を除くため放生<ほうじょう>を修するよう求めた。放生は山野池沼などに魚鳥を逃がしてやることであり、『金光明<こんこうみょうきょう>経』『梵網<ぼんもう>経』などの経説に基づく善根功徳である。 殺生の罪におののいた宇佐八幡は、仏教に帰依し、仏教による救いを求めたのであるが、このときまでに宇佐の地に仏教がひろまっていたと考えなければならない。ところで七世紀後半の宇佐および宇佐周辺にあった寺は、次の四ヵ寺であった。 (1)虚空蔵廃寺 宇佐市駅川町山本(旧宇佐郡) (2)法鏡廃寺 宇佐市法鏡寺(旧宇佐郡) (3)小倉池廃寺 宇佐市上元重(旧宇佐郡) (4)相原廃寺 中津市相原(旧下毛郡) このなかで(3)小倉池<おぐらいけ>廃寺は七堂伽藍をそなえた寺ではなく、一宇の堂で成立する程度の小規模の寺と考えられるので、これを除くと(1)虚空蔵<こくぞう>廃寺は大神氏の氏寺に、また相原<あいはら>廃寺は宇佐氏の氏寺に比定できるとすれば、法鏡<ほうきょう>寺は辛嶋氏の氏寺とみることができよう。辛嶋氏が宇佐八幡の託宣にかかわりあっていることから推察すれば、宇佐八幡の仏教帰依、またその表明については、とくに法鏡寺の往僧の役割に注目しなければならない。 その国の神が、異国の仏に救済を求めた例は、すでに新羅において見られる。新羅の円光[532〜630]は十一年間陳(隋)にあって仏法を学び、帰国して仏法の興隆につとめた。青年貴族に「世俗の五戒」を説いたことで著名であるが、神に戒を授けた話も伝えられている。神といえども、無常を免れることができず、円光に救済を求めたのであった。 宇佐における神仏習合の教説は、法鏡寺の僧などによって準備されたが、その教説の源流は平城京の仏教界ではなく、新羅の仏教界であったと思う。なぜなら、日本の神々のなかで、仏教帰依を表明したのは宇佐八幡が最初であったからである。神仏習合の教説は、平城京の寺々には流布していなかったとみるべきであろう。 天平十三年(741)閏三月に、政府は秘錦冠<ひきんかん>一頭・金字の『最勝王<さいしょうおう>経』『法華<ほっけ>経』各一部・度者<どしゃ>十八人・封戸<ふこ>の馬五匹を宇佐八幡に奉納し、また三重塔一区を造立した。藤原広嗣の討伐に際し、八幡の神助を得たことに対する宿祷<しゅくとう>であり、このことは弥勒寺の成立またはその拡充に関係があるであろう。『最勝王経』十巻、『法華経』八巻を読踊するため、十八名の僧を必要としたのであるが、国分寺・国分尼寺創建の詔が下されたのが、この一ヶ月前であることを考えれば、「仏教帰依」の宇佐八幡が、すでに「国家擁護」の神に転身していたことが知られるのみならず、神宮寺としての弥勒寺としての創建ないし拡大発展に、奈良の政府が積極的であった事実に出会うのである。 第三章 宇佐八幡と奈良の宮廷へ |
| 戻る | |