| 大分の古代美術 | |
| 宇佐八幡の誕生から 末法の到来まで |
田村 圓澄 |
![]() 香春岳遠望 |
第三章 宇佐八幡と奈良の宮廷 天平十二年(740)に聖武天皇は難波に赴く途中、河内<かわち>の知識寺<ちしきじ>に詣でて盧舎那仏<るしゃなぶつ>を礼し、大仏造立を思い立った。知識寺(大阪府柏原市太平寺)は東西に塔を配する薬師寺式伽藍配置であり、七世紀後半の創建と考えられる。盧舎那仏は華厳宗<けごんしゅう>の本尊であり、したがって義湘を開祖とする新羅華厳が、河内の知識寺に伝えられていたのである。 知識寺の「知識」は「善知識」を意味し、仏縁を結ばせる物や人のことである。つまり知識寺はひとりの豪族が建てた氏寺と異なり、名もなき庶民までも、分に応じて金品や労力を出し合って建てた民衆寺であった。この点が聖武天皇に感銘を与えたと思う。聖武天皇は、「善智識」方式によって、大仏の造率が可能であるとの確信をもったのではないか。 まもなく宇佐八幡が託宣を下し、天神・地祇を率い誘い、如何なる難事であろうとも、大仏造立を必ず実現させるであろう、との支持と援助の意向を表明した。 ところでこの託宣には、注目すべき点がある。第一に、「天神地祇を率い誘いて」とあるが、天神の中で最高位にあったのは、天皇家の祖先神である天照大神であった。つまり宇佐八幡は、大仏造立について天照大神の上位に立つことを宣言し、聖武天皇もこれを承認したのである。 第二に、日本全国の天神地祇は宇佐八幡の主導により、大仏造立の支援体制に組み入れられた。宇佐八幡は天神地祇のなかで、仏教接近の最先端に位置しており、この事実は天神地祇の識るところであったが、大仏造立を契機として、天神地祇は同じ目標の下に整序せられることとなった。 したがって第三に、天神地祇、つまり日本の神々は、仏教帰依・仏法擁護の方向に秩序づけられ、その方向は固定化せられた。九世紀になって、神宮寺・神前読経の慣行が全国的規模でひろがるが、ともあれ神々の仏教接近を決定的にしたのは、宇佐八幡の託宣であった。豊前の一地方神にすぎなかった宇佐八幡は宮廷の信仰を集めると供に、大仏造立を契機として、にわかに全国の貴族・豪族の信仰と信頼を集め、天神地祇の先頭に立つ神となった。 大仏の造立工事は、まず近江の紫香楽<しがらき>(滋賀県甲賀郡信楽町)で始められるが、後に平城京に移った。そして天平勝宝元年(749)に盧舎那大仏の鋳造は終った。東大寺大仏である。大仏が完成すると宇佐八幡は託宣を下し、上京して大仏を礼拝したい旨を表明した。宇佐八幡が大仏に参拝した当日は、孝謙天皇・聖武上皇・光明皇太后をはじめ、文武百官が東大寺に参会し、五千の僧が礼仏讃経する盛儀となった。 ところで隼人討伐の罪障に苦しみ、救済を求めた宇佐八幡の念願は、放生会の興行を導くが、放生会の原形は、香春<かわら>(福岡県田川郡香春町)の三ノ岳の麓で鋳造した銅鏡を、行装をととのえて遠路はるばる宇佐に運び、八幡に奉上することであった。つまり放生会以前に銅鏡奉送の儀礼が恒式化していたのである。これに放生の行事が加わるのは、養老四年(720)以後のことと考えられる。 『豊前国風土記』(逸文)によれば、鹿春(香春)の神は新羅よりこの地に渡ってきたという。香春の峯からは銅を産出し、今も彩銅所の地名を残しているが、香春の銅の採掘・精錬などに従事たのが新羅系渡来氏族集団であり、香春の神はかれらの守護神であったと思う。『延喜式』の神名帳によれば、香春神社の祭神は辛国息長大姫大目命とされている。香春神が現在の香春神社の地に移るのは和銅二年(709)であり、それまでは彩銅所の古宮八幡宮の地にあった。 ここで仮説を提示しよう。 宇佐の渡来系氏族は道教を伝えていた。大神比義は道士と考えられるが、道士にとって必要なのは道鏡であった。銅鏡によって神仙の姿を見ることができ、千里の外のことや未来について予知することができる。吉凶のト占、悪獣接近の発見にも、銅鏡は不可欠であり、つまり山林の道士は銅鏡を身辺から離すことはできなかった。 ところで、宇佐の道士集団に銅鏡を奉上していたのが、香春の人々であった。放生会以前の銅鏡奉送の儀礼にその事実が見られる。そして銅鏡奉上の原形は、宇佐に対する香春の服属儀礼にあったと思う。 豊前の銅の生産高は、10世紀においても長門<ながと>と供に日本での最高位を保持していたが、その銅は香春で産出されていた。聖武天皇の大仏造立に際し、宇佐八幡が援助の託宣を出しえたのは、香春の銅を確保していたからであり、すなわち宇佐八幡の命により、香春の豊富な銅ならびに高度の技術が、東大寺大仏造営に投入されたと見るべきであろう。 八世紀の仏教の隆盛、つまり「国家仏教」の段階から、「仏教国家」の段階に移行するに従い、宮廷および貴族の宇佐八幡に対する信仰はいっそう深まった。 称徳女帝の治世下では疫病の流行、亢旱<こうかん>による五穀の不登<ふとう>、そして慢性的な飢饉が続いた。治世に自信をなくした女帝に対し、僧の道鏡を帝位に即<つ>かしめるならば、天下は太平になるであろう、という宇佐八幡の託宣が告げられ、これを確認するために和気清麻呂<わきのきよまろ>が登場する。結果的に先の託宣の偽りであったことかがあきらかとなるが、ともあれ宇佐八幡は律令国家の命運を左右する神にまでなった。 称徳女帝の崩御、道鏡の失脚により、「仏教国家」に終止符が打たれるが、政権の座を回復した藤原氏は、再び女帝が出現することに警戒を強めると共に、宇佐八幡の神職団の動向に危惧の念を深めた。貞観元年(859)に石清水に石清水八幡宮<いわしみず>八幡宮が創立されるが、新羅との軍事的緊張を背景としていたとはいえ、なお託宣を掌握する宇佐八幡宮の神職団から、八幡を分離し、平安京の近くに勧請したいとする宮廷・貴族の共通の願望に支えられていたと思う。 石清水八幡は、やがて伊勢太神宮と並ぶ「国家宗廟神」の地位を獲得する。しかし、宇佐八幡に対する中央貴族の崇敬は変らなかった。平安時代の宇佐八幡宮領は豊・筑・肥・日・隅の各国にわたって百余ヵ所を数え、八千町歩を越える。伊勢太神宮に次ぐ規模であった。 第四章 末法の到来―経塚と浄土教へ |
| 戻る | |