| 大分の古代美術 | |
| 宇佐八幡の誕生から 末法の到来まで |
田村 圓澄 |
![]() 長安寺銅板経銅筥板 ![]() 臼杵古園磨崖仏 大日如来 ![]() 富貴寺阿弥陀如来坐像 ![]() 真木大堂不動明王立像 |
第四章 末法の到来―経塚と浄土教 最澄は入唐の直前、九州に滞在することになるが、その間に竈門山<かまどさん>寺、香春神、宇佐八幡を巡拝し、航路の安全を祈った。唐から帰国して十ヵ年が過ぎた頃、再び九州を訪れ、竈門山寺や宇佐八幡などを巡拝した。こうして太宰府および宇佐は天台宗の拠点となる準備がととのえられた。 最澄の弟子の円仁は承和5年(838)に入唐したが、たまたま武宗による会昌の仏教弾圧を身近に体験した。破棄された寺院は四千六百、還俗させられた僧尼は二十六万五千人に及び、仏像、仏具は改鋳して農具などにされた。会昌の法難である。近づく末法の到来に備え、経典の保存・保全の必要性が痛感されたが、帰国した円仁は『法華経』などを書写して銅筒に納め、比叡山の横川に埋蔵した。釈迦滅後五十六億七千万年後に、第二の釈迦として人間世界に出現する弥勒<みろく>の世につなぐためであった。経塚である。 天台宗の解釈によれば、永承七年(1052)が末法第一年にあたるが、この時期を前後して経塚の造営がブームとなり、東は秋田・山形・福島から、西は熊本・宮崎・鹿児島にいたる日本全土にひろまった。12世紀までの経塚出土の紀年銘をもつ遺物の数は、福岡県の六十二を筆頭に、京都の十六、大分県の十四と続く。 九州の経塚の中心は二つある。太宰府とその周辺、および彦山から国東半島に至る地域である。また大分県には経塚が広く分布しており、なかでも一巻仕立ての如法経を納めた山の下経塚(下毛郡三光村田口)の銅経筒、また一字一石経碑(大野郡朝地町五尾)は著名である。 求菩堤<くぼて>山(福岡県豊前市)の普賢窟出土の銅板経は、銅板三十三枚に『法華経』『般若心経<はんにゃしんぎょう>』が刻まれており、銅筥<どうはこ>に納置されている。康治元年(1142)の完成であるが、大勧進の頼厳は宇佐郡辛嶋の人であり、壮年のころ比叡山に登って修学した。やがて求菩堤山に帰り護国寺を再興したという銘文に記された紀長雅および宇佐の御馬所検校の経重永は銅細工者者であり、彦山出土の銅板経にも、経重永は細工者と記されている。長安寺(豊後高田市加礼川)の銅板経には、細工者紀長雅の銘がある。 豊前特有の銅板経は、宇佐―国東半島―求菩堤山―彦山を結ぶ山岳信仰圏のなかで製作されており、天台の教説による末法到来の危機意識に立脚すると共に、香春の銅の生産と技術の伝統を受けついでいたと思う。 経塚造営の場所は、人里離れた幽邃<ゆうすい>の聖地であった。とくに著名な山に埋葬する例が多いが、そこには仏教進出以前から、山岳崇拝・山林修行の行場があり、修験山伏の伝統が培かわれていた。修験山伏は妻子をたずさえており、山麓で在家生活を営みながら、山に入って窟にこもり、木の実・草の葉の常食、すなわち断穀の試練に耐え、咒験力の体得を目指した。 経塚の造営は、僧が発願者となり、また勧進者となって進められる場合が多い。しかし経塚設置の場所の選定、埋納、保管などは、その山を修行の場とする修験山伏に委ねられたと思う。 彦山の霊仙寺、求菩提山の護国寺のように、仏教の進出に伴い、修験山伏の山々に寺院が建ち、僧が入寺することになった。しかし修験者は僧とは一線を画し、在家の生活を営むことに変りはなかった。注意されるのは、修験の山々には神が常在し、あるいは時に応じて降臨すると信じられていたことである。この山神は修験者のみならず、一般の民衆にとっても信仰・崇拝の対象であった。 山に経塚を営み、経典の永久保管を計るためには、仏教側はまず山神に土地占有についての許可を得なければならず、また経典の保護・保全についても依頼しなければならなかったであろう。つまり経塚の造営にともない、山神と仏教との新たな出合いが、全国的に始まることとなる。こうして「権現<ごんげん>」の教説が仏教側において用意された。つまり日本の山神は、インドの仏・菩薩が権<か>りに神として現われたとする、いわゆる本地垂迹<ほんちすいじゃく>説である。権現の出現と、経塚の流布が時期的に重なるのみならず。場所をも同じくするのは偶然でない。しかも「権現」はすべて「山神」であった。 宇佐八幡の旧地であった御許山には、石体権現が祀られていた。国東半島には鞍掛権現・西叡山権現・大谷山権現・屋山権現・長石屋権現・龍門石屋権現・小城権現・波枕権現・伊美崎権現などの権現が祀られているが、すなわちそこは修験山伏の行場でもあった。 大分県の磨崖石仏の所在は、国東と臼杵と大野川流域の三つの地域にわけることができる。このなかで深田(臼杵市)の磨崖仏は、大日如来を本尊とする古園磨崖仏=金堂、薬師如来を本尊とする山王山磨崖仏=薬師堂、阿弥陀如来を本尊とするホキ磨崖仏・堂ヶ迫磨崖仏=阿弥陀堂などを擁する完結した一寺の伽藍形態をとっており、したがって深田の磨崖石仏群は特定の氏族を檀越<だんおつ>として造営された氏寺<うじでら>と見なすことができる。しかしこのような例は少なく、大分県下の大部分の磨崖石仏は、修験山伏により、そして修験山伏の修行のために営まれた。修験山伏は僧ではなく、したがって寺院内に止住<しじゅう>することはなかったが、しかし修験の山の仏教化が進むにつれ、帰依の対象として大日・不動などの密教系の仏・菩薩が造られる。大分県の磨崖仏の分布圏は、修験山伏の行場の分布圏でもあった。 しかし大分県下において、なぜかくも多くの、そして広い範囲で磨崖石仏が造営されたのであろうか。 磨崖石仏に適した石材が豊富に存在していることや、石造彫刻の技術が伝えられていることも、理由となったであろう。しかし同時に、修験文化の花が咲きそろいえた根底に、宇佐八幡に源流する高度の文化性、および経済力があった事実に、注目しなければならない。 第一に、八世紀までの宇佐は、中央に優位する文化を保持していた。畿内および朝鮮半島との海上交通の要衡であったことが、宇佐の文化的先進性を保証した。第二に、宇佐八幡は、仏教帰依に踏み切った日本最初の神であった。そして宇佐八幡の仏教への志向は、宇佐周辺の神々の仏教化・天台化を容易にした。第三に、大分県下の山々には、山岳信仰・山林修行の道教が定着し、修行者が続いたが、宇佐八幡の勢力の拡大、つまり神領化は、その修行者すなわち修験山伏を財政的にも援助する結果となった。これを可能にしたのは、第四に、宇佐神領内の、とくに山間部における天台寺院の建立である。修験山伏は各寺院の組織のなかに組みこまれ、同時に経済的な保証が与えられた。 磨崖石仏と経塚に象徴される修験文化が、宇佐八幡の神威の及ぶ大分県下に広く展開している事実は、宇佐八幡の仏教帰依と、この故に中央貴族の崇敬を集めた宇佐八幡の歴史を如実に物語っているのである。 経塚は、末法到来の現実をうけとめる天台宗の対応の一つであったが、同じく天台宗の内部では、末法相応の仏教としての浄土宗が盛んとなった。比叡山横川の恵心僧都源信<えしんそうずげんしん>が、寛和元年(985)に完成した『往生要集<おうじょうようしゅう>』は、この世を穢土<えど>として厭い離れ、西方の極楽浄土を欣<よろこ>び求める浄土教の流行に、画期的な役割を果した。 『往生要集』は西方極楽浄土<さいほうごくらくじょうど>の法悦を、感覚的視覚的に説く。極楽浄土の菩薩が臨終の念仏者を迎える場面を描いた『聖衆来迎図<しょうじゅらいごうず>』の造顕や、また儀礼的にこれを具現する迎講会<ごうこうえ>の興行なども、院政期にピークに達するが、貴族のなかに、極楽浄土を地上に実現しようとする者も現われた。宇治の平等院を建てた藤原頼通などである。藤原貴族の観想的浄土信仰の拠点でもあるこの種の建物は阿弥陀堂と呼ばれている。 富貴寺(豊後高田市蕗)は、宇佐大宮司の宇佐氏の氏寺であった。浄土教信仰がこの地にも伝えられ、境内に阿弥陀堂が建立された。阿弥陀堂の中央正面に、極楽浄土の教主である阿弥陀如来坐像が安置され、堂内の壁画には七宝壮厳の浄土の光景や、音楽を奏する聖衆の像などが描かれている。法会のときには美々しく着かざった僧たちが、声うるわしく念仏・読経しながら、本尊のまわりを行道し、堂内はさながら極楽浄土と思われたであろう。 浄土信仰は、一個人の後世の救済に結びつくのであるが、いっぽうで不動明王を本尊とする真木の大堂も建てられている。不動明王は現世の苦難を除去する力があると信ぜられた。不動信仰は天台宗の密教化、すなわち台密<たいみつ>に基いている。つまり現世の安穏と来世の救済は、天台宗において用意せられていたのである。「国家擁護」の仏教が、個人の安穏・救済に重点が移行するのは、律令国家体制崩壊の現実に根差しているが、ともあれ宇佐を軸とする豊前が比叡山の仏教に敏感に対応し、新しい仏教を受けいれていた事実に驚かされるのである。 (完) |
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