大分の古代美術
仏教美術の華 倉田 文作
第一章 奈良時代




宇佐市 虚空蔵寺跡 塔心礎


虚空蔵寺出土


 県下の廃寺跡の発掘結果をみても、飛鳥時代の仏寺の例は見当らず、おそらく中央に倣<なら>って県下に仏寺が造営されたのは奈良時代に入ってのことと考えられる。その奈良時代も早いころに創建されたと推定される主要な仏寺、すなわち相原<あいはら>廃寺(中津市相原)、虚空蔵<こくぞう>寺廃寺(宇佐市山本)、法鏡<ほうきょう>寺廃寺(宇佐市法鏡寺)などがいずれも宇佐とその近隣に集中しているのは、注目すべきことであろう。これらの廃寺跡とその周辺の発掘調査が進めば、出土遺跡から奈良時代の宇佐を中心とする仏教文化のすがたより具体的に捕えうる筈であるが、今日までの知見では虚空蔵寺跡から大和の川原寺<かわらでら>ないし法隆寺系と目される字瓦<のきがわら>が出土し、また堂塔の配置がこれらの三寺とも回廊の内に塔を左、金堂を右に配した法隆寺式伽藍配置によっていたことが報告されているのは興味深く、すでに七世紀後半から大和の中央に倣った本格的な仏寺が宇佐に栄えたことを物語るものといえよう。また、宇佐地方とともに、大分平野にも金剛宝戒寺、永興寺、豊後国分寺などのやはり奈良朝にさかのぼる仏寺の跡が判明しているが、出土遺跡の多彩な点ではやはり宇佐周辺に劣るようで、特に国分寺出土の古瓦が主として筑紫の大宰府出土のそれに範を求めているのは、官営の国分寺として当然のことといえよう。これらの廃寺跡出土の遺品のなかで、最も美術史的興味をひくのは、虚空蔵寺跡出土のである。これらの仏は、昭和29年と45〜6年の再度にわたって発掘調査がおこなわれ、第一次には56個、第二次発掘でもかなりの数の残片が発見されている。第一次発掘の所見によるとこれらの仏は虚空蔵寺跡の塔の心礎ならびに四天柱の礎石のあたりまでにわたって発見されたといい、おそらく塔内の壁画に貼装されていたものと考えられている。仏のこのような堂内貼装の現存例は残念ながら知られていないが、仏と、制作のときも像容においてもきわめて近似する神出仏(銅板打出しのレリーフ)のばあいは、法隆寺玉虫厨子の例などをみると、宮殿内壁の全面、扉をも含めて鎚<ついちょう>の千仏坐像が貼りつけられている。縦8.8、横80cmの銅板に七十二躰の如来を鎚起したものが一単位で、総数は4、468躰にのぼるという。これは厨子とは異なるが、同趣の押出千躰仏は、長谷寺の銅板法華説相図にもみられる。この種の千仏がこのように厨子などの内壁を飾った実例であって、仏に関しては同様の現存例は見当らないが、昭和49年春に網干善教氏らによって発掘された飛鳥川原寺の旧境内裏山から発見された多数の仏(その数は完形のものに残片をまじえて千数百点にのぼる)は、ただちに仏の当初の用途を物語るものではないにせよ、すこぶる示唆に富む出土例である。これらのはいずれも方形、三尊形式で、中央には倚坐の如来形の中尊、両脇侍は共に蓮華座上に立ち、中尊の後屏の両端には双樹を配し、上方には天蓋と飛天二をあらわす。概ね完形に近いものも三十面、残片の中には当初の箔押しのあとが判明する例もある。川原寺裏山の遺構は4.5×2.6m、深さ約3mの穴で、焼失した寺の仏像や荘厳具をまとめて埋葬した跡と認められた。出土品はこれら多数の仏のほか、塑像の残片や仏像その他の飾金具とおもわれるものの残片、若干の貨銭などをも含んでいる。仏は、すなわち堂内の壁を荘厳した千仏の名残りと考えられる。なら石光寺や山田寺出土の如来坐像を縦横に並座させた仏などは、こうした目的を明らかに示す遺構といっていい。これらの仏のなかでも、両脇侍の随侍する三尊形式のものは概して法量が大きく(橘寺出土の三尊は縦23.6、横19.4cm、同じく橘寺から出た火頭形三尊は縦26、横20.5、いずれも厚みは3.2cmと大きく、厚い)、これらは例えば念持仏として小厨子内に安置したことも想像されるが、独尊のみをあらわすは概ね小ぶりで、特に虚空蔵寺出土のものなど縦6.2、横5cm、厚みも0.9cmとすこぶる小さく、堂内壁画を荘厳する仏としては不適当で、おそらく厨子の壁に貼付された千仏などに用いられたかと想像される。なお虚空蔵寺と法量、形制がほぼ同様の例が奈良南方華寺から出土していて、ほとんど同笵かとおもわれる。小品ではあるが、形制、荘厳のすこぶる整ったもので、独尊の如来は右手を胸前にあげ、左手は膝上におき、上方が火頭形の後屏をそなえた宣字座に坐って両脚を垂れる古式の姿であり、上方には飛雲と宝相華を配し、後屏の縁、如来の両側には後足で立つ一対の獅子を、また台座の下框の両端にも坐る一対の獅子をあらわして、形制はこの法量とおもわれぬほどに荘重にして、整っている。小さいながらすこぶる入念の作技であって、同趣の例が大和で出土していることは参考になろう。制作は他の大方のと同様奈良時代も早いころ、世にいう白鳳期、すなわち七世紀後半と考えていい。いまのところ県下の仏の出土例はけっして多くはないが、例えば飛鳥地方などにおけると同様に、その作例は今後の発掘が進むにつれて数を増すものとおもわれる。
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