大分の古代美術
仏教美術の華 倉田 文作
第一章 奈良時代
























































柞原八幡宮 銅像如来立像


















長谷寺 銅像観音菩薩立像

長谷寺 銅像観音菩薩立像 丸框銘文



羅漢寺 観音菩薩立像


銅像誕生釈迦仏(佐々木家蔵)

独鈷杵(佐々木家蔵)
(2)金銅仏の遺例

 飛鳥、奈良時代の仏像についてみると、その主流は金銅仏であり、塑像であり、また乾漆像であった。特に金銅仏は、仏像初伝のころから輸送梱包にたえる材質であったために舶載される例も多く、また工人の渡来もあって、七世紀の早いころから止利作の飛鳥大仏(現状は損傷著しく、面相の部分や手先などに当初の残片を残すのみで、概容は補修のみ目立つ)のような大作を生んだ。その後も蝋型鋳造の技はますます進歩して今日も残る多数の金銅仏を生んでいるし、特に八世紀半ばには蝋型でなく、土型を用いて下方から積層式に八回の鋳造を重ねて五条三尺の東大寺金堂本尊の盧舎那仏をともかくも鋳上げる偉業をなしとげている。大方の日本の金銅仏は、中国の伝統に倣って肉厚に、堅固に鋳造され、ブロンズの組織も銅94.5パーセントとほとんど純銅に近い組織の濃い湯(鎔銅)を用いた。上代の金銅仏で表面の鍍金のつきのよいのはこうした組織のためでもある。(参考までに記せば、13世紀半ばに鋳造された鎌倉の大仏、つまり高徳院の弥陀坐像は、部位によって若干ブロンズの組成が異なるが概ね25パーセントほどの鉛を含有している。造像時からおそらく鍍金をせず箔押しとしたのもこの組成の故である。)これに対して、朝鮮半島では若干大陸と異なる鋳造法を早くから生み出し、肉厚のすこぶる薄い金銅仏を工夫している。さらに統一新羅時代に至ると、頭部、体部の背面で中型<なかご>と外型とを接続させて両者を固定する工夫をおこない、従って鋳成時には背面に上下二箇ないし数箇の穴を見出す。さらに、いま対馬の黒瀬観音堂に伝存する如来坐像などの例をみると、本体の上半身とその下方の納衣につつまれる仏身とを別鋳して、本躰二部を納衣の襟で矧ぎあわせるなどの工夫をおこない、大陸の鋳造法とは趣を異にし、一方では鎔銅を節約し、また他方薄肉に細部までを丁寧に仕上げる方法を成功させている。今日わが国に残る金銅仏などには、半島風の像容、様式の特色を承けた作例がけっして少なくないが、鋳造法は原則として中国風の技法により、統一新羅風の像背面の型穴を残す例は見当たらず、又本躰を二部に分けて別鋳する技などは模倣されていない。朝鮮半島では、厨子入の小金銅仏など、あたかも平安後期以降の日本の懸仏の例のように、像の前半のみを鋳成して背面を省く例が間々見当るが(統一新羅の例)、日本ではこの種の例もない。鋳造法に関する限りは、日本の金銅仏は中国風の技法を墨守したといって宜しかろう。
 金銅仏は、早くは飛鳥の大仏、東大寺大仏のような大作を生み、また薬師寺金堂の薬師三尊に代表される円熟した鋳造技法のすぐれた作例を生むとともに、おそらくは念持仏のたぐいから出たものとおもわれるが、驚くほど多数の小金銅仏を鋳造した。それらの中には造立の経緯と年紀を伴う例も少なからず、それらによって上代金銅仏の編年は比較的容易におこない得るが、今日伝存する作例のみをみても、様式的にきわめて多様で、さまざまな中国、朝鮮の本歌がほとんど時を同じくしてわが国に紹介されたものと想像される。従って日本の金銅仏、特に小金銅仏に関する限り、様式的編年は直ちに実際の制作年代に直結しないことも記憶すべきであろう。
 今日わが国に残る飛鳥、奈良時代の金銅仏は、当然のことながら畿内、特に大和に多く、その大方は南部の諸大寺伝来のものが多い、管見の及ぶかぎりでは、大分県下の奈良期にさかのぼる金銅仏は四例を数える。その一は大分市柞原八幡宮所蔵の銅像如来立像である。像は台座を含む全高が37.6cm、その全体を一鋳につくり、金厚は厚く、したがって重い。これはすこぶるユニークな作例である。もっとも飛鳥、奈良時代の仏像は、平安朝以降のいわば儀軌にしばられる約束事の多い時代の作品にくらべて、作者と作品ごとに個性があり、その中でも特色が目立つ。相好をみれば、童顔、わずかに微笑を浮かべるかにみえ、またまろやかなモデリングの両手の表情をみても制作は奈良前期、世にいう白鳳期のもので、七世紀後半の古例と認められるが、異色の一はその体勢で、左手は自然に体側に伸ばしながら脇をあけ、右手は肘から先を不自然なほど外方に張って、体正面の空間を一段と広くしている。阿弥陀如来の立像という社伝があるが、この印相では尊名をきめがたい。それはともかく、この両手を外方にひろげる濶達なさまは、中国と朝鮮半島にはその例が珍しくない。日本の造仏に関連するころの作例からみても、北魏、太平真君四年銘の全高53cmの如来立像(個人蔵)などをみても、両手は共に屈臂しながら堂々と外方に張り、いかにも大陸風を顕著に表現しているし、また同様わが国個人蔵の北魏、太和年間の如来坐像一躰(重要文化財)なども左手には納衣の衣端を握りながら両手先は外方に張って濶達な像容を示す。この両手の構えは、如来像としていかにもふさわしい大容とみえるが、それが朝鮮半島では三国、新羅統一時代を通じてかなりの数の作例を残しているにもかかわらず、わが国ではあまり歓迎されず、その作例はきわめてめずらしい。同趣の例としては、中国にその例の多い交脚像がわが国にはそのあとをとどめないことをあげることができる。
 柞原八幡宮像の異色の第二はそのモデリングである。正面からはあまり目立たないが、側面、背面からみると躰部の肉どりはすこぶる異色のある円筒形で、したがって厚みがあり、特に左側面における異色ぶりは他に例をみない。異色の第三は衣褶の意匠である。左肩から斜めに垂下する納衣の衣文が正面を飾り、直立する円筒形の躰貌に変化を与え、加えてその衣端が腰以下の中央左寄りをにぎやかに装飾する。衣文は大ぶりで、そのしのぎのあたりは切れ味のするどいというより厚手に丸みがあって、重厚な柔軟さを披露している。このような衣文のにぎやかさは、奈良般若寺の如来立像、高野山親王院の如来立像、さらには河内観心寺の如来半跏像など、かならずしも同趣の例がないわけではないが、やはり本像のばあいはその童顔といい、正面の空間を広く捕える両手の構えといい、朝鮮様式の影響が色濃く感ぜられるが、、しかもそのかげにひそむ一種の典雅さにはすでに和風の特色が感ぜられもする。九州に伝世する白鳳仏の中では出色のものである。
 金銅仏その二は長谷寺の観音菩薩立像である。台座を含む全高は39.4、像高30.0cm、足下の仰蓮までは本躰と一鋳につくるが、その下方の反花と丸框を別に一鋳でつくり、上方に鋳継ぎ、その丸框をめぐって正面から左廻りに三十五字の銘文を縦書きに刻む。そのはじめに「壬歳次摂提格」とあり、制作の年次は様式からみて大宝二年(702)であろう。本躰部と反花以下を別鋳して鋳継ぐのはやや不自然とみえるが、あるいは下方に鋳損じがあってこのような結果となったものかとおもわれる。この鋳継ぎのために仰蓮、反花の間にすきがあり、いささか有機的なつながりに欠ける憾みがあるが、それを除けば仰蓮と反花とは同趣のもので、銘文を否定する要はあるまい。この像、火中して鍍金も大方を失ない、右手指先など内方にそりかえって歪形を伴なうが、和風のおだやかな像容と動きのある裳折返しの形、天衣の動きなど像容の大方は八世紀初頭の金銅仏として時代の特色を示している。鋳技かならずしも優秀とはいい難いが、独尊の観音立像としての端正さを示すもので、加えて銘文により制作の時を明らかにすることは貴重である。
 金銅仏中の第三は羅漢寺の観音菩薩立像である。本像は台座を含んで全身を一鋳に仕上げ、両手に大ぶりの宝瓶を支える観音立像で、反花内面は抜くが、他はムクに鋳上げたようで、上半身をそらせて立つ細身の姿と下ぶくれの相好に特色があり、制作は八世紀初頭のころとみられる。
 金銅仏中の第四は、下毛郡三光村の佐々木家蔵の銅像誕生仏である。誕生仏の古例は、四国地方、特に香川、愛媛県下などに近年出土した作例が知られているし、九州でも福岡(聖福寺)、熊本(広福寺)、佐賀(広福護国禅寺)などにその例があり、特に熊本・佐賀の二像などは八世紀の作例中でも一種型がわりの異風がある。それにくらべると、佐々木家のものはたいへん素直な出来で、型の如く右手を挙げ、左手はやや肘をゆるめながら掌を腰わきに当て、台座に達する長めの裳をつけて高い蓮肉上に立つ姿で、右手先から蓮肉底にいたる全高が12.5cm、うち蓮肉部の高さが約2cmに達する。相好はいかにも温雅で、躰貌も細身にアクセントのない平静な様にまとめられ、長い裳の衣文にもあまり動勢が感じられない。すべてに控え目のおだやかな作風をみれば、制作はおそらく奈良朝末のころに求められよう。この像でむしろ目立つのはその蓮肉の形制であり、丈高い臼形のかたちは奈良朝の蓮肉の一典型を示すもので、誕生仏の蓮肉にはしばしば厚みを省いて単に蓮肉上面のみをつくり、下方に長い柄を鋳出して立てる例がめずらしくないが、この佐々木家像はまことに典型的な奈良朝の蓮肉をつくっているあたりは本格的な誕生仏の一例といえよう。本像は明治二四年十一月、当時の下毛郡山口村の瑞雲寺境内から出土したもので、この出土地は経塚であったものとおもわれ、像とともに平安末の独鈷、念珠、宋代の陶器数点などが出土している。
 経塚の築造はおそらく平安末ないし鎌倉初のころであろうが、築造のさいに手元の誕生仏の古像を仏舎利にみたてて納置したものであろう。ともあれ本像は、県下にまれな誕生仏の古例として注目されるものである。なお上代誕生仏の大方は、裳が短か目で、多く仏の膝以下をあらわす例が多いが、本例のように蓮肉に達する長目の裳をつくる作例もないわけではない。七世紀にさかのぼっての古例には見当らないが、八世紀、特にその後半になってその手の例が制作されるようにおもわれる。
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