大分の古代美術
仏教美術の華 倉田 文作
第一章 奈良時代



塑造三尊仏像残欠(天福寺)

(3)塑像の遺例

 近年(昭和50年)宇佐天福寺の塑造三尊仏像残欠が重要文化財に指定されて、一躍宇佐と大和の文化的つながりいわば迫真性をもって認識されることとなった。何よりのことである。塑像はいまさらいうまでもなく、奈良朝の白鳳期に大和当麻寺の弥勒仏坐像(金堂安置)のような大作(像高219.7cm)を今日に残している。大陸や半島では塑は仏像造顕の主要な材質として金銅仏、石仏にならぶ存在でありその伝統は後世に及んでいる。わが国でも七世紀後半から八世紀にかけて盛行し、数多い名作を今日に伝えているが九州においてもその作例はけっしてめずらしくなかった。筑紫観世音寺を例にとれば、その講堂にもと安置した塑像の不空羂索観音の丈六立像は、同寺の康平七年(1064)の火災まで旧容を伝え、この火災の猛焔の底にあっても常住の相を現じ、補修を加えて旧の如く安置したという(不桑略記)。惜しいことにこの丈六塑像はその後承久三年(1221)に顛倒、破損したので翌貞応元年にあらたに木造の丈六立像を造立し、その像内に旧像の身木の一部(上半身)と塑像残片を納入品として奉籠した(同身木銘文)。この残片は宝髻の一部、左耳上半部、鼻の大部、上唇右半などであるが、それらから想定できる元来の塑像の愛好は、現存する金銅仏中の蟹満寺釈迦坐像や薬師寺金堂中尊の薬師坐像などの都作に匹敵し、その制作も和銅二年(709)と続日本紀に伝える本寺の造営をへだたらぬ頃と想定できる。今日この丈六塑像が伝世していたら、わが国塑像中の最大の古例として威容を誇ったことであろう。その他観世音寺境内からは天部像の腕の残片なども出土しているから、筑紫の地に都ぶりの塑像の工房があったことが確認されるが、法量は等身大とはいえ、天平期の塑造の三尊が宇佐に発見されたことは、この地方が平城の地に直結する文化的伝統をもっていたことを物語るものといっても過言ではあるまい。
 天福寺の三尊は、宇佐市西南の山地に位置するこの寺の奥ノ院に七十余体の平安朝の木造の破損仏と共に伝世したもので、中尊はほぼ等身、両脇侍はほぼ四尺立像と推定される。三躯とも榧材の心木に藁縄を巻き、藁<わらすさ>をまじえた荒土を用いて塑形し、表面には紙と雲母入りの仕上げ土を着せて像容を整え、彩色をして仕上げた本格的な塑像であり、いま三尊とも頭部、両手、足先を欠き、特に中尊など膝前右半の部分を欠いて痛ましいさまを呈しているが、地方には遺例のすくない塑像の、しかも三尊の大容を伝えていることは貴重である。躰貌は引締ってしかも濶達な肉どりを示し、天平期、八世紀の正統的な作風を示していて、その損傷にもかかわらず、この三尊の文化史的意義は大きい。心木に榧<かや>材を用いるのもこの地方としては当然の選択であろう。その造像技法が中央の作例に比して遜色のないあたりに、往年の宇佐文化の都ぶりが如実に示されている感がある。

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